江見氏
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作東町江見近辺に栄えた武家。菅原氏から派生した江見氏と南北朝時代に、その一族の領地を乗っ取った赤松氏流江見氏(江見川原氏)があった。 道真の孫、庶幾の子孫という(『東作誌』 江見庄土居村福ノ城条)。一族は江見荘一円に繁茂したが、林野保、中でも出雲街道に加え吉野川・梶並川・滝川が合流する物流の要衝である倉敷を掌握し経済的富裕を誇った。平安時代は平家方として活動するも、鎌倉幕府御家人に転身。南北朝初期は菅家党と行動を共にする。赤松氏と関係が深く、文正元年(1466年)、有馬温泉に嘉吉の乱により一旦滅んだ赤松氏旧臣が再興を期して集結した時に加わるなど赤松方として行動した。幕府への資金援助などが認められ、京で仕えるとともに永享年間に、江見氏は室町幕府外様衆に加えられる。 『蔭涼軒日録』の大部を書いた亀泉集証は江見の出身で、江見伊豆守の息子月江寿桂と愛人関係にあったこともあり、記録が多く残っている。 戦国期に入ると、江見氏は守護赤松氏の権勢を利用して、一族や周辺豪族の領地を集約して統制権を確立した。天文元年に始まる尼子氏による美作制圧が進む中で江見氏は尼子方となる。しかし尼子氏が毛利氏に駆逐されると、いち早く反尼子へ転じた後藤氏との戦いに敗れ、一旦滅びた後、元亀2年(1571年)にその後藤氏の援助により再興する。このような変転やさらに織田勢の進行による環境の激変で倉敷などを掌握できなくなり、宇喜多氏に仕え、朝鮮出兵に参加するものの没落。宇喜多氏改易後は借財を重ねつつ仕官を目指すも叶わなかった。 赤松流の江見氏は円心を遡ること数代前に派生した宇野氏の景俊(江見川原又次郎)が英田郡江見川原を領して始まったもの。南北朝時代に、菅家流江見氏が後醍醐天皇の檄に応じて立ち、江見盛則は鳥越山城(美作市鯰)を伊東氏・松田氏に攻められて、同じ宮方の赤松氏に救援を求め宇野亦治郎・赤松範資が赴いたが、その到着前に城は陥落し盛則は戦死した。宇野景俊は盛則の跡を襲い、そのまま江見氏となったと伝わる。 江見氏は菅家の流であり、源平から南北朝まで軍事的に行動を共にするなど深い関係にあったが、すでに平安時代から独自の武家として活動する勢力である。
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