江見氏とは? わかりやすく解説

江見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:44 UTC 版)

美作菅氏」の記事における「江見氏」の解説

作東町江見近辺栄えた武家菅原氏から派生した江見氏と南北朝時代に、その一族領地乗っ取った赤松氏流江見氏(江見川原氏)があった。 道真の孫、庶幾の子孫という(『東作誌江見土居村福ノ城条)。一族江見一円繁茂したが、林野保、中でも出雲街道加え吉野川梶並川滝川合流する物流要衝である倉敷掌握し経済的富裕誇った平安時代平家方として活動するも、鎌倉幕府御家人転身南北朝初期菅家党と行動共にする赤松氏と関係が深く文正元年(1466年)、有馬温泉嘉吉の乱により一旦滅んだ赤松氏旧臣再興期して集結した時に加わるなど赤松方として行動した幕府への資金援助などが認められ、京で仕えとともに永享年間に、江見氏は室町幕府外様衆加えられる。 『蔭涼軒日録』の大部書いた亀泉集証江見出身で、江見伊豆守息子月江寿愛人関係にあったこともあり、記録多く残っている。 戦国期に入ると、江見氏は守護赤松氏権勢利用して一族周辺豪族領地集約して統制確立した天文元年に始まる尼子氏による美作制圧が進む中で江見氏は尼子方となる。しかし尼子氏毛利氏駆逐されると、いち早く尼子転じた後藤氏との戦い敗れ、一旦滅びた後、元亀2年(1571年)にその後藤氏援助により再興するこのような変転やさらに織田勢の進行による環境激変倉敷などを掌握できなくなり宇喜多氏仕え朝鮮出兵参加するものの没落宇喜多氏改易後借財重ねつつ仕官目指すも叶わなかった。 赤松流の江見氏は円心遡ること数代前に派生した宇野氏の景俊(江見川原又次郎)が英田郡江見川原領して始まったもの。南北朝時代に、菅家流江見氏が後醍醐天皇に応じて立ち、江見盛則は鳥越山城美作市)を伊東氏松田氏攻められて、同じ宮方赤松氏救援求め宇野亦治郎・赤松範資赴いたが、その到着前に城は陥落し盛則は戦死した宇野景俊は盛則の跡を襲いそのまま江見氏となったと伝わる。 江見氏は菅家の流であり、源平から南北朝まで軍事的に行動共にするなど深い関係にあったが、すでに平安時代から独自の武家として活動する勢力である。

※この「江見氏」の解説は、「美作菅氏」の解説の一部です。
「江見氏」を含む「美作菅氏」の記事については、「美作菅氏」の概要を参照ください。

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