『東国文献備考』(1770)の于山
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「于山島」の記事における「『東国文献備考』(1770)の于山」の解説
1770年(英祖46年)に編纂された『東国文献備考』所収で申景濬が編纂した「輿地考」の分註に「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。日本では当時、現在の竹島のことを松島と呼んでいたため、韓国政府は現在の独島(竹島)が于山で、于山は于山国の一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。また、この一節の中の『輿地志』は安龍福が日本に訴願しに来る40年前の1656年に柳馨遠によって編纂されているので、安龍福の証言以前から朝鮮が領有していたとしている。これは朝鮮政府の文献なので、韓国では国の領有を決定付ける最も有力な証拠としている。 しかし最近、現存しないとされていた「輿地志」(『東国輿地志』)が見つかり、于山島の記述は『新増東国輿地勝覧』の転記しかない事が分かった。『東国文献備考』に書かれている「于山則倭所謂松島也」(于山は即ち倭の所謂松島である)の部分は、従来の日本の主張通り『輿地志』からの引用ではなく『旅菴全書』の「疆界考」と同様申景濬の私見だったのである。この文が安龍福の証言を元にしているかどうかは定かではないが、『東国文献備考』や「疆界考」の書かれた時期、朝鮮人と日本人が鬱陵島で遭遇した時期を考えると『粛宗実録』にある安龍福の証言を引用している可能性が高く、安龍福の虚言や多くの不自然な発言に鑑みるとその内容も信用するに値しないことになる。 また、1700年代初頭までの朝鮮の地図に記されている于山島は、全て松島とは全く違う位置や形・大きさで記されており、当時の朝鮮政府は松島を全く把握していないことが分かる。この頃の于山島も鬱陵島の東に隣接して描かれており、日本では、その位置関係や大きさ、形状、後の文献内容からも、于山島は現在の竹嶼を描いていると言われている。つまり、朝鮮政府は日本人の言う松島の存在を知らず、竹嶼と誤認していることになる。
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