『東国文献備考』の于山とは? わかりやすく解説

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『東国文献備考』(1770)の于山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)

于山島」の記事における「『東国文献備考』(1770)の于山」の解説

1770年英祖46年)に編纂された『東国文献備考所収で申景濬が編纂した輿地考」の分註に「輿地志云 鬱陵 于山于山國于山則倭所謂松島也」(輿地志に言う、鬱陵于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である。)との一節がある。日本では当時現在の竹島のことを松島呼んでいたため、韓国政府現在の独島竹島)が于山で、于山于山国一部であり、すなわち朝鮮領であるとしている。また、この一節の中の『輿地志』は安龍福日本訴願しに来る40年前1656年柳馨遠によって編纂されているので、安龍福証言以前から朝鮮領有していたとしている。これは朝鮮政府文献なので、韓国では国の領有決定付ける最も有力な証拠としている。 しかし最近現存しいとされていた「輿地志」(『東国輿地志』)が見つかり、于山島記述は『新増東国輿地勝覧』の転記しかない事が分かった。『東国文献備考』に書かれている于山則倭所謂松島也」(于山は即ち倭の所謂松島である)の部分は、従来日本主張通り輿地志』からの引用ではなく『旅全書』の「疆界考」と同様申景濬の私見だったのである。この文が安龍福証言元にしているかどうか定かではないが、『東国文献備考』や「疆界考」の書かれ時期朝鮮人日本人鬱陵島遭遇した時期考えると『粛宗実録』にある安龍福証言引用している可能性高く安龍福の虚言多く不自然な発言鑑みるその内容信用する値しないことになる。 また、1700年代初頭までの朝鮮地図記されている于山島は、全て松島とは全く違う位置や形・大きさ記されており、当時朝鮮政府松島を全く把握していないことが分かるこの頃于山島鬱陵島の東に隣接して描かれており、日本では、その位置関係大きさ形状、後の文献内容からも、于山島現在の竹嶼描いていると言われている。つまり、朝鮮政府日本人の言う松島存在知らず竹嶼誤認していることになる。

※この「『東国文献備考』(1770)の于山」の解説は、「于山島」の解説の一部です。
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