『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説とは? わかりやすく解説

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『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:20 UTC 版)

本庄繁長」の記事における「『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説」の解説

上杉家では、延宝8年1680年)に成立した軍記物東国太平記』(杉原親清編纂国枝清軒校訂)の内容を「松川合戦」の通説として語り、「謙信以来本庄繁長武勇知らしめた戦い」としてその武功を讃え喧伝している。 慶長6年4月26日2万ばかりの大軍率いて伊達政宗軍が侵攻してきた。初め劣勢だった上杉軍は、本庄繁長奇策により、信夫山後背から須田長義と共に伊達軍挟撃した。小荷駄隊撃破され、「竹に雀陣幕」まで奪われ伊達軍大い慌てふためいて浮き足立ち、更に福島城城門から出撃した本庄繁長軍が伊達軍中央本陣深く切り込んだため、伊達軍総崩れとなった。この戦いで上杉側は首級1290余り上げ大戦果を上げた。この予想外大敗北に伊達政宗はわずか10騎ばかりの供回りで、本道避け間道抜けて白石城逃げ帰った。この戦いの結果、「上杉家の手柄は天下美談となった」と云う。(『東国太平記第4巻 慶長6年4月26日松川合戦政宗福島城攻める事。并せて須田大炊介、政宗陣幕切り取る事」)

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