『東国太平記』における本庄繁長の挟撃説
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上杉家では、延宝8年(1680年)に成立した軍記物『東国太平記』(杉原親清編纂、国枝清軒校訂)の内容を「松川合戦」の通説として語り、「謙信以来の本庄繁長の武勇を知らしめた戦い」としてその武功を讃え喧伝している。 慶長6年4月26日、2万ばかりの大軍を率いて伊達政宗軍が侵攻してきた。初め劣勢だった上杉軍は、本庄繁長の奇策により、信夫山の後背から須田長義軍と共に伊達軍を挟撃した。小荷駄隊を撃破され、「竹に雀の陣幕」まで奪われた伊達軍は大いに慌てふためいて浮き足立ち、更に福島城城門から出撃した本庄繁長軍が伊達軍の中央本陣深く切り込んだため、伊達軍は総崩れとなった。この戦いで上杉側は首級1290余りを上げる大戦果を上げた。この予想外の大敗北に伊達政宗はわずか10騎ばかりの供回りで、本道を避け、間道を抜けて白石城へ逃げ帰った。この戦いの結果、「上杉家の手柄は天下の美談となった」と云う。(『東国太平記』第4巻 慶長6年4月26日「松川合戦に政宗、福島城を攻める事。并せて須田大炊介、政宗の陣幕を切り取る事」)
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