植月氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:44 UTC 版)
勝田郡勝央町植月に住した支族。系図では延喜元年美作に下向し、そのまま作州で没した道真の男子道公の後裔とする。 重能は尼子経久に仕え、天文5年の大内義隆による出雲攻めで功を立て伯耆国日野郡に領地を得る。息子佐秋は永禄9年、尼子義久の敗北と共に出雲を退いて作州乃介庄に潜伏していたが、永禄12年の尼子勝久の尼子旧領奪回作戦に従って数々の功を立てた。佐秋は敗北して出雲を負われた勝久とともに上京するなど、終始行動を共にし、最後は天正6年播磨上月城で勝久の切腹にしたがって殉死した。重秋、重教と2代にわたって宇喜多氏に仕えたが、関ヶ原の戦いに敗北して浪人。重源の代になって森氏に仕えた。
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