養育を巡って
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皇太子裕仁親王・同妃良子女王の意向もあり、里子には出されず両親の手元で養育される。全国から3人の乳人が選ばれたが、夜中以外は使わず、当時としては画期的なことであった。 成子内親王が満1歳の誕生日を迎えた直後、1926年(昭和元年)12月25日、祖父・大正天皇の崩御に伴う父・皇太子裕仁親王の践祚により、成子内親王は天皇の第一皇女になり、また、自身の満年齢が昭和と同一になった。成子内親王は幼稚園には通園しなかったが、選ばれた学友達が葉山御用邸や赤坂離宮へ参内し、また成子内親王が幼稚園を訪問したり吹上御苑や新宿御苑等で幼稚園児らと交流を持った。この頃、昼食の際に「だいじなだいじなおもうさまとおたあさま」と微笑みながら発語したという。 しかし、その後、「昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育った」という批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年(昭和6年)10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定。翌1932年(昭和7年)4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。 呉竹寮は、当初から1932年(昭和7年)時点で誕生していた妹宮達が入寮することができるよう設計され、後に学齢を迎えた妹宮たちと共に生活するようになる。また選ばれた級友が5-6名ずつ輪番で呉竹寮を訪問した。前田美意子や小堀臣子の回想によれば、体温測定を行い訪問専用の制服に着替えた上で御所に上がっていたという。穂積美代子や前田美意子ら特に親しい学友は、これ以外に招きで呉竹寮や葉山御用邸に「お内緒」で招かれていた。また学友たちは、宮内省からの辞令を受けていた。 学習院では「成子内親王」と表記されていたが、入学当初は自身「シゲコ」と名のみ記名し、学友たちは「宮様」と呼んでいた。成長・進級に伴い、自筆でも「成子内親王」を用いた。教室への登校の前に控室に立ち寄ることと、女官が授業参観をしていた以外は、他の学友達と同じだった。食事に関しては、宮内省の大膳職の作ったものしか口にできないため、学校が用意した水分(お茶、運動後の冷水)ではなく魔法瓶で持参していた。 土曜日の午後、天皇・皇后が呉竹寮を訪問し、日曜の午後は成子内親王が宮城を訪問して、家族の時間を持った。しかし成子内親王が宮城に宿泊したことはほとんどなく、例外のひとつが1936年(昭和11年)2月28日、二・二六事件の折であった。1936年(昭和11年)の5月から夏季休暇まで、百日咳のため葉山で療養した以外は、健康状態は良好であり、また運動神経もよく水泳が得意であった。学習院時代は理科・作文が得意だったといわれる。1937年(昭和12年)頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。 学習院中等科では、学業優秀なだけでなく、スポーツ競技会での活躍、英語劇でのヒロイン役(白雪姫)、合唱等を活発に行い、全校生徒の模範であった。反面、一般的な少女らしい性格面もあり、男性教師に憧れを抱いて積極的に質問したり、海軍の制服に憧れを持っていた。しかし、東久邇宮家の盛厚王と婚約が内定してからは「今日から、私は陸軍党になりますから」と学友たちに笑って話した。 女子学習院中等科の4・5年生次には、『反省録』を記し、主管(担任教師)の指導を受けていた。天皇の神格化が進む時代にあって、中等科5年生(1942年(昭和17年))の10月26日付で、次のような反省録を記した。 「 私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるとき、この地位にいる資格があるか恐ろしくなる。 」 —秋元書房『皇女照宮』 p.86
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