養育を巡ってとは? わかりやすく解説

養育を巡って

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)

東久邇成子」の記事における「養育を巡って」の解説

皇太子裕仁親王・同妃良子女王意向もあり、里子には出され両親の手元で養育される。全国から3人の乳人選ばれたが、夜中以外は使わず当時としては画期的なことであった成子内親王が満1歳誕生日迎えた直後1926年昭和元年12月25日祖父大正天皇崩御に伴う父・皇太子裕仁親王践祚により、成子内親王天皇第一皇女になり、また、自身満年齢昭和同一になった。成子内親王幼稚園には通園しなかったが、選ばれ学友達が葉山御用邸赤坂離宮参内し、また成子内親王幼稚園訪問した吹上御苑新宿御苑等で幼稚園児らと交流持ったこの頃昼食の際に「だいじなだいじなおもうさまおたあさま」と微笑みながら発語したという。 しかし、その後、「昭和天皇香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育った」という批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学控えた1931年昭和6年10月、旧本丸内に呉竹寮建設決定。翌1932年昭和7年4月6日から呉竹寮移り家族別居した。4月9日女子学習院入学呉竹寮は、当初から1932年昭和7年時点誕生していた妹宮達が入寮することができるよう設計され、後に学齢迎えた妹宮たちと共に生活するうになる。また選ばれ級友5-6名ずつ輪番呉竹寮訪問した前田美意子や小堀臣子回想によれば体温測定行い訪問専用制服着替えた上で御所上がっていたという。穂積美代子前田美意子ら特に親し学友は、これ以外に招き呉竹寮葉山御用邸に「お内緒」で招かれていた。また学友たちは、宮内省からの辞令受けていた。 学習院では「成子内親王」と表記されていたが、入学当初自身シゲコ」と名のみ記名し学友たちは「宮様」と呼んでいた。成長進級に伴い自筆でも「成子内親王」を用いた教室への登校前に控室立ち寄ることと、女官授業参観をしていた以外は、他の学友達と同じだった食事に関しては、宮内省大膳職作ったものしか口にできないため、学校用意した水分お茶運動後の冷水ではなく魔法瓶持参していた。 土曜日午後天皇・皇后呉竹寮訪問し日曜午後成子内親王宮城訪問して家族時間持った。しかし成子内親王宮城宿泊したことはほとんどなく、例外のひとつが1936年昭和11年2月28日二・二六事件の折であった1936年昭和11年)の5月から夏季休暇まで、百日咳のため葉山療養した以外は、健康状態良好であり、また運動神経もよく水泳が得意であった学習院時代理科作文得意だったといわれる1937年昭和12年)頃から休暇の際には全国各地単独訪問するうになる学習院中等科では、学業優秀なだけでなく、スポーツ競技会での活躍、英語劇でのヒロイン役(白雪姫)、合唱等を活発に行い全校生徒模範であった反面一般的な少女らしい性格面もあり、男性教師憧れ抱いて積極的に質問したり、海軍制服憧れ持っていた。しかし、東久邇宮家盛厚王婚約内定してからは「今日から、私は陸軍党になりますから」と学友たちに笑って話した女子学習院中等科4・5年次には、『反省録』を記し主管担任教師)の指導受けていた。天皇神格化が進む時代にあって中等科5年生1942年昭和17年))の10月26日付で、次のような反省録を記した。 「 私はどういうめぐりあわせ高貴な家に生まれた。私は絶え世間注視中にある。いつどこにおいても私は優れてなければならない。私は皇室背負っている。私の言動直ち皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。高い木には風が当たり易い。それなのに高きありながら多く弱点をもつ自分をみるとき、この地位にいる資格があるか恐ろしくなる。 」 —秋元書房皇女照宮』 p.86

※この「養育を巡って」の解説は、「東久邇成子」の解説の一部です。
「養育を巡って」を含む「東久邇成子」の記事については、「東久邇成子」の概要を参照ください。

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