養老電気鉄道・伊勢電気鉄道
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「養老鉄道養老線」の記事における「養老電気鉄道・伊勢電気鉄道」の解説
伊勢電気鉄道はこの譲渡直前の9月11日に伊勢鉄道から社名変更したが、同日に四日市銀行頭取の熊澤一衛が社長に就任した。熊澤は四日市銀行を資金源に積極策を打ち出すことになる。伊勢電気鉄道の電化を完成させると揖斐川電気より譲受した桑名 - 四日市間の工事に着手した。さらに1928年(昭和3年)2月に養老電気鉄道を設立し、4月に揖斐川電気(熊澤は監査役に就任)より鉄道事業を譲受した。桑名 - 四日市間を1929年(昭和4年)1月に開業させた伊勢電気鉄道は10月に養老電気鉄道を合併し、11月13日に津新地 - 大垣間直通急行列車の運行を開始した。 その後も伊勢電気鉄道は宇治山田、名古屋への延伸をすすめたが有利子負債は1379万円(昭和5年度)まで増加し、昭和恐慌の影響で収入は伸び悩んだ。このような時期に熊澤は五私鉄疑獄事件で検挙され、1932年(昭和7年)2月に社長を辞任。3月には信用不安により預金の流出が続いた四日市銀行が営業休止に追い込まれた。そして7月には養老線の強制管理が実施されることになる。これは明治生命保険120万円、東京海上火災保険、三菱海上火災保険各65万円計250万円の借入金があり、この返済が滞ったため鉄道財団が設定された養老線が差押えられる事態となった。 伊勢電は更生の道を模索することになったが再建策はなかなかさだまらなかった。当初は専務取締役の武藤嘉門が指揮を執っていたが、大口債権者である日本興業銀行の推薦により1931年(昭和6年)11月から高橋真男が加わり、1933年(昭和8年)7月に半田貢にかわった。名岐鉄道や根津嘉一郎 (初代) の支援要請も検討されたが結局三井・興銀の了解のもと大軌・参急と交渉をすすめることになる。ようやく伊勢電気鉄道整理案がまとまり桑名 - 揖斐間の路線を分離して1936年(昭和11年)5月養老電鉄株式会社を設立(本社大阪、社長金森又一郎)し譲渡することになった。
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