会津蘆名氏
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三浦義明の七男・佐原義連を初代とするが、蘆名姓を名乗るのは、義連の息子盛連の四男光盛の代になってからである(異説あり)[要出典]。室町時代には京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称していた。 戦国時代に蘆名盛氏の時代で最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される有力大名となった。 しかし、蘆名氏は一族猪苗代氏をはじめとする家臣の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため天正8年(1580年)、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。 盛氏の死後、二階堂氏からの人質の二階堂盛義の子が婿養子として後を継いだ。蘆名盛隆である。周辺諸氏と友好を保ち伊達氏に対抗したり、織田信長に使者を送るなど積極的な政策を打ち出すが、家中の統制には苦慮している。天正12年(1584年)に近従の大庭三左衛門に暗殺され、その後を継いだ盛隆の遺児亀若丸(亀王丸)も天正13年(1586年)に3歳で夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えた。 天正17年(1589年)、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、蘆名氏は没落。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城主となる(江戸崎藩)が、関ヶ原の戦いの際には、旗幟を鮮明にしなかった実兄・佐竹義宣と行動を共にしたために改易。次いで佐竹家臣として出羽国角館城に1万6,000石を与えられたものの、盛重の死後、息子が相次いで病死、最後の当主・蘆名千鶴丸も3歳で事故死したために家系は断絶して蘆名氏は滅亡した。 なお、蘆名家の一門であった針生氏は蘆名家滅亡後に伊達氏に仕え、この系統は延宝4年(1676年)に仙台藩主・伊達綱村の命により蘆名に改姓した。
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