養子としての苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 23:48 UTC 版)
生来生真面目な性格だったらしく、養子時代には偉大な探幽の跡取りとして苦悩する様子が見える史料が残る。大徳寺僧の春沢宗晃の『昂隠集』巻二に「與狩野洞雲」という項目がある。内容は、益信がかつて隠元に「画業において肝心なことは何か」と尋ねると、「無心に描けばよい」と言われたが、自分にはわからないのでどういうことか説いて欲しい、と春沢に乞いその返事を記したものである。春沢は「一心は二つの働き(二用)をすることはできない。あなたが龍を描くときには、心すべてが龍そのもので、他の思いがあってはならない。このようにして描けば、霊ある龍、威のある虎が描けるはずである。二用の心がけがない状態を会得することができれば、何を描いても自然と「神妙」な絵が描ける。そのことをただ思いなさい」と答えた。隠元との面会後間もなくのことだと想定すれば、益信は既に40代前半で何らかの画境に至っていても不思議ではない年齢である。しかし、探幽の天才ぶりを目の当たりにしその画風を模範とした益信には、無心で描くという別次元の理屈がなかなか飲み込めなかったようだ。また真偽は不明だが、若い頃に久隅守景の息子彦十郎と悪所通いをしたという逸話(『古画備考』)も、探幽との画力の差に悩み憂さ晴らしを求めての行動とも取れる。 こういた性格を反映してか画技も探幽様式をよく学んで堅実・丁寧で、探幽が養子に望んだだけあって作品はどれも一定以上の水準を保っている。その反面、やや丁寧すぎて画面に生気が乏しく硬直化し、伸びやかさや軽やかさに欠けるきらいがある。
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