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水野勝種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 02:00 UTC 版)

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水野勝種
水野勝種
時代 江戸時代前期
生誕 寛文元年5月9日1661年6月5日
死没 元禄10年8月23日1697年10月7日
改名 勝慶(初名)、勝種
別名 民部(通称)
戒名 萬輝院殿前作州太守忠嶽全功大居士
墓所 広島県福山市若松町の水野家菩提寺の曹洞宗賢忠寺
官位 従四位下美作守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
備後福山藩
氏族 水野氏
父母 水野勝貞:瀬尾氏
兄弟 鶴、与曽、勝種
正室酒井忠清の娘・長姫
勝岑
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水野 勝種(みずの かつたね)は、備後国福山藩の第4代藩主。水野宗家4代。第3代主・水野勝貞の長男で、母は瀬尾氏。

生涯

水野勝種公墓所(在福山)

福山で生まれる。寛文3年(1663年)に父の死により数え3歳で跡を継ぐ。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初御目見し、延宝3年(1675年)に従五位下に任官して美作守を名乗る。

藩政の功績としては、沼隈町の磐台寺観音堂をはじめ、領内の神社仏閣の再興や造営を行ったことが挙げられる。天和元年(1681年)、越後騒動により断罪された松平綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。

元禄10年(1697年)に江戸で死去し、初代藩主の勝成らと同じく福山の賢忠寺に葬られる。

7人もの男子に恵まれたが、長男から六男まではいずれも早世、末子の勝岑(七男)が跡を継いだが、数え2歳で早世したため、水野氏による福山藩政は終焉を迎えた。

系譜

参考文献

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