水野勝邦とは? わかりやすく解説

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水野勝邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/22 08:35 UTC 版)

水野勝邦

水野 勝邦(みずの かつくに、1904年明治37年〉6月27日 - 1988年昭和63年〉1月12日[1])は、日本の華族子爵)・政治家中国研究者。水野家(旧結城藩)第19代当主。旧名は邦で、1924年大正13年)11月26日、勝邦に改名した[2]

経歴

1928年昭和3年)に学習院を卒業、東京帝国大学文学部に進学して中国に関する研究を行った。外務省派遣中華民国調査員、専修大学講師、外務省在支特別研究員、北支那開発会社調査局嘱託などを歴任。北平(現在の北京)に「水野公館」を開設し日中外交に携わると共に、中国各地を調査し多くの報告書、論文を執筆した[3]

1939年(昭和14年)7月10日貴族院子爵議員に選出され[4]、院内会派研究会所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[1]

1940年(昭和15年)には拓務省委員、1943年(昭和18年)には大東亜省委員に就任し、日中を往復すること36回に及んだが、1944年(昭和19年)末に議会出席のため一時帰国し、戦局悪化のため再び中国の地を踏むことなく終戦をむかえた[5]

終戦後も1947年(昭和22年)の貴族院廃止まで議員を務めた。1950年(昭和25年)から立正大学経済研究所研究員に迎えられ、翌年、経済学部助教授に就任し教育に従事することとなった(1960年(昭和35年)に教授、1961年(昭和36年)に学部長)。麗澤大学では非常勤講師を務めた。大学では中国経済を中心に講義を行い、またゼミを運営した。経済発展や工業地域の構成、鉄道建設、農業発展と労働力などに関する論文を主に立正大学の『経済学季報』に執筆し、旺盛な研究活動を展開していた。終生中国研究に携わると共に、かつて自らが議員を務めた貴族院の歴史についてまとめ、貴族院研究の基礎を築いた[6]

著作

親族

父は貴族院の会派・研究会幹部の水野直。妻は長島隆二の次女・可壽子。弟の博は大谷竹次郎の養子となり、戦後には松竹の社長に就任した[7]

脚注

  1. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』58頁。
  2. ^ 『官報』第3696号、大正13年12月16日。
  3. ^ 北京ノ新聞ニ就テ(支那視察報告第六号)
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、48頁。
  5. ^ 水野勝邦の中国研究関係資料(『学習院史学』56号、2018年)
  6. ^ 水野勝邦『貴族院会派〈研究会〉史』(芙蓉書房出版、2019年)
  7. ^ 「人 大谷博」『朝日新聞』昭和35年4月16日)

参考文献

日本の爵位
先代
水野直
子爵
結城水野家第3代
1929年 - 1947年
次代
華族制度廃止



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