延広八幡宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/28 03:35 UTC 版)
かつては惣堂八幡宮と呼ばれ福山城建設地である常興寺山の麓にあったが、福山城築城のとき職人たちにより城下の南の神島町下市(現在の延広町)に祀られたとされる。寛永18年(1641年)に神島町が火事で焼けたため、神島町と共に城下南東(現在の住吉町)に移されたといわれる。なお、現在の天満屋南側の通りが(神社が存在しないにもかかわらず)「宮通り」と呼ばれるのは、この名残といわれる。寛文2年(1662年)、3代藩主水野勝貞の死去により発生したお家騒動のため、惣堂は騒動につながるとして「延広八幡宮」と改称された。この騒動は旧勝貞側近と門閥派との対立により起きたもので「水野家家中騒動」といわれ勝貞の元側近5名が殉死を強いられることになった。4代藩主・水野勝種が天和3年(1683年)に城下南西の野上八幡宮と共に吉津川北岸に移転させ「東の宮」と一般に呼ばれるようになった。
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