延暦三年の征夷計画
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「日本の古代東北経営」の記事における「延暦三年の征夷計画」の解説
天応2年6月17日(782年7月31日)、皇太子早良親王に使えていた春宮大夫大伴家持が陸奥出羽按察使・鎮守将軍の2官を兼任した。同日には入間広成が陸奥介、安倍猨嶋墨縄が鎮守権副将軍に任じられている。家持は同年閏正月10日(782年2月26日)に起こった氷上川継の乱への関与を疑われて解官されているが、4月には罪を赦され参議に復していた。 延暦2年1月、平城京で道嶋嶋足が死去した。 延暦2年4月15日(783年5月20日)、鎮守府の将吏らが坂東八国より鎮守府の軍粮として運び込まれた穀をいったん穎稲に入れ替え、あまった穀を「軽物」に替えて都に運び利益をえることや、鎮兵を私田の耕作に使役するなどの不正を行っていたため、桓武天皇の勅によって今後は軍法によって厳しく処断すべきこととされた。 延暦3年2月、大伴家持が持節征東大使に任じられた。この頃の東北辺境情勢は反乱や騒擾があまりみられず概ね小康状態にあり、国家側に大規模な征討準備をおこなっていた形跡もなく、67歳の文官政治家であった家持が総指揮官である征東将軍に任じられた理由は不明である。長岡京遷都に抵抗していた大伴氏の勢力削減を謀るために家持・弟麻呂を征東使に任じて陸奥へ追い遣った可能性が指摘されている。同年11月11日(784年12月27日)に平城京から長岡京に遷都された。 延暦4年8月28日(785年10月5日)、大伴家持は任地において死去。征討計画は軍兵・武器・軍粮確保などの諸準備が進捗せず、征夷は実施されないまま計画自体が自然消滅する。同年9月23日(785年10月30日)夜、長岡京遷都に主導的な役割を果たしていた中納言藤原種継が造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去(藤原種継暗殺事件)。大伴宿禰一族の大伴継人・大伴竹良が首謀者と発覚し、捕らえられた継人と佐伯高成は家持が大伴氏と佐伯氏に早良親王の意を奉じて種継を暗殺すべきと呼びかけた張本人と証言をおこなった。家持は死後、位階・勲位等すべての名誉を剥奪された。
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