延暦三年の征夷計画とは? わかりやすく解説

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延暦三年の征夷計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「延暦三年の征夷計画」の解説

天応2年6月17日782年7月31日)、皇太子早良親王使えていた春宮大夫大伴家持陸奥出羽按察使鎮守将軍の2官を兼任した同日には入間広成陸奥介安倍猨嶋墨縄鎮守副将軍任じられている。家持同年正月10日782年2月26日)に起こった氷上川継の乱への関与疑われ解官されているが、4月には罪を赦され参議復していた。 延暦2年1月平城京道嶋嶋足死去した延暦2年4月15日783年5月20日)、鎮守府の将吏らが坂東八国より鎮守府の軍粮として運び込まれた穀をいったん穎稲入れ替えあまった穀を「軽物」に替えて都に運び利益をえることや、鎮兵私田耕作使役するなどの不正を行っていたため、桓武天皇の勅によって今後軍法によって厳しく処断すべきこととされた。 延暦3年2月大伴家持持節征東大使任じられた。この頃東北辺境情勢反乱騒擾があまりみられず概ね小康状態にあり、国家側に大規模な征討準備をおこなっていた形跡もなく、67歳文官政治家であった家持総指揮官である征東将軍任じられ理由不明である。長岡京遷都抵抗していた大伴氏勢力削減謀るために家持・弟麻呂征東使任じて陸奥追い遣った可能性指摘されている。同年11月11日784年12月27日)に平城京から長岡京遷都された。 延暦4年8月28日785年10月5日)、大伴家持任地において死去征討計画軍兵武器・軍粮確保などの諸準備進捗せず、征夷実施されないまま計画自体が自然消滅する同年9月23日785年10月30日)夜、長岡京遷都主導的な役割果たしていた中納言藤原種継造宮監督中に矢で射られ翌日薨去藤原種継暗殺事件)。大伴宿禰一族大伴継人大伴竹良が首謀者発覚し捕らえられた継人と佐伯高成は家持大伴氏佐伯氏早良親王の意を奉じて種継を暗殺すべきと呼びかけ張本人証言おこなった家持死後位階勲位すべての名誉を剥奪された。

※この「延暦三年の征夷計画」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「延暦三年の征夷計画」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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