延暦二十年の征夷
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「日本の古代東北経営」の記事における「延暦二十年の征夷」の解説
延暦15年1月25日(796年3月9日)、坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されると、同年10月27日(11月30日)に鎮守将軍も兼任した。 延暦15年11月2日(796年12月5日)に伊治城と玉造塞の間に駅が置かれた。11月8日(12月11日)、伊勢・参河、相模・近江・丹波・但馬から各2人を陸奥国に遣わし、2年間養蚕を教習させた。11月21日(12月24日)相模・武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・出羽・越後の8国の民9000人が伊治城に移住させられている。 延暦15年12月28日(797年1月30日)には太政官符が下され、陸奥国の屯田より徴収される地子を一町ごとに稲20束とすべきことが定められた。屯田地子徴収体制の整備は、帰降した蝦夷族長らへの食糧支給のための財源確保とも深く関わっていたものと考えられる。 延暦19年10月、征夷副将軍以下の任命人事があり、征夷使の陣容が整った。『日本紀略』の任命記事は副将軍以下の人名が省略されているが、『日本三代実録』によれば小野永見が征夷副将軍に任命されたらしい。 延暦20年2月14日(801年3月31日)、征夷大将軍坂上田村麻呂が桓武天皇より節刀を賜った。『日本後紀』によると動員された征夷軍は総勢4万人で前回の4割、軍監5人、軍曹32人であった。 『日本後紀』の欠失のため詳しい経過は不明である。 同年9月27日(801年11月6日)、坂上田村麻呂から戦勝報告があったが、『日本紀略』は「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々。夷賊を討伏す」と記すのみで、内容を完全に省略している。『日本後紀』には嵯峨天皇の詔として次のように記されている。 又故大納言坂上大宿禰田村麻呂等を遣して、伐平けしめ給ふに、遠く閉伊村を極めて、略は掃ひ除きてしかども、山谷に逃げ隠れて、尽頭りて究殄すこと得ずなりにたり — 『日本後紀』弘仁二年十二月甲戌(十三日)条 このときの征夷は岩手県太平洋沿岸部の閉伊村までおよんだらしいことがうかがえる。 延暦20年には移配蝦夷の田租を免除する法令が出されているため、第二次征討と同様に多数の蝦夷が諸国に移配されたと考えられる。
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延暦二十年の征夷
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延暦15年1月25日(796年3月9日)、田村麻呂は陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命されると、同年10月27日(796年11月30日)には鎮守将軍も兼ねることになった。延暦16年11月5日(797年11月27日)、桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられたことで、東北地方全般の行政を指揮する官職を全て合わせ持った。桓武朝第三次蝦夷征討が実行されたのは3年後の延暦20年(801年)だが、田村麻呂がどのような準備をしていたかなどの記録は『日本後紀』に記載されていたと思われるものの、記載されている部分が欠落している。延暦17年閏5月24日(798年7月12日)に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将になると、延暦19年11月6日(800年11月25日)に諸国に配した夷俘を検校するために派遣されている。この頃には肩書きが「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」となっていた。 延暦20年2月14日(801年3月31日)、田村麻呂が44歳のときに征夷大将軍として節刀を賜って平安京より出征する。軍勢は4万、軍監5人、軍曹32人であった。この征討は記録に乏しいが、9月27日(801年11月6日)に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、征討が終了していたことがうかがえる。また「討伏」という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている。 同年10月28日(801年12月7日)に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日(801年12月15日)に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を叙位された。12月には近衛中将に任命された。
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