延暦八年の征夷とは? わかりやすく解説

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延暦八年の征夷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「延暦八年の征夷」の解説

延暦7年2月28日788年4月8日)、陸奥出羽按察使陸奥守多治比宇美前年5月より空席となっていた鎮守将軍兼任安倍猨嶋墨縄鎮守副将軍任命された。 延暦7年3月2日4月12日)、中央政府陸奥国に軍粮35000余斛を多賀城に運ぶこと、東海東山・北諸国に糒23000余斛と塩を7月までに陸奥国に運ぶことを指示している。また3月3日4月13日)には東海東山坂東諸国に対して歩兵騎兵合わせて5万2800余人徴発して翌年3月までに多賀城会集させるよう命じている。なお選定にあっては先の戦いで叙勲された者、常陸国神賤優先するよう指示している。常陸国神賤常陸国から多・磐城・標行方宇多・伊具・亘理宮城黒河・色麻・志田小田牡鹿38末社勧請し奉幣しつつ陸奥へと進軍している。 延暦7年3月21日5月1日)、征東副使人事おこなわれ多治比浜成紀真人佐伯葛城入間広成の4人が任命された。さらに7月6日8月11日)には伊治公砦麻呂の乱で征東副使務めた紀古佐美征東大使任命されている。この時の征東使人事は鎮官、副使大使の順でおこなわれており、最高位である大使人事が一番後回しにされているのは異例である。 延暦7年12月7日789年1月7日)、紀古佐美長岡京内裏桓武天皇より節刀授けられ坂東安危この一挙に在り将軍勉むべし」と激励受けて陸奥国進発した。 翌・延暦8年789年)に紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討開始された。紀古佐美5月末まで衣川に軍を留め進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責受けたため蝦夷拠点目されていた胆沢向けて軍勢発したが、朝廷軍多数損害出し壊走紀古佐美遠征失敗終わったという(巣伏の戦い)。 『続日本紀』延暦8年6月3日条には官軍純粋な戦闘死は25人とみえ、一方で『続日本紀』延暦8年7月17日条には89人の敵軍兵士の首を取ったとあり、同じ巣伏の戦いにおける官軍胆沢蝦夷軍の戦闘死者数であるならば、官軍は相当善戦したことになる。しかし延暦8年6月3日条での官軍阿弖流爲率い胆沢蝦夷軍に翻弄され惨敗喫しているため、その際敵軍兵士の首を89級も挙げることが出来たとは考えがたい。 そのため延暦八年の征夷では、5月下旬から末頃に起こった巣伏の戦い呼ばれる第一次胆沢合戦の後に、第二次胆沢合戦起こっていた可能性指摘されている。

※この「延暦八年の征夷」の解説は、「日本の古代東北経営」の解説の一部です。
「延暦八年の征夷」を含む「日本の古代東北経営」の記事については、「日本の古代東北経営」の概要を参照ください。

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