延暦八年の征夷
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「日本の古代東北経営」の記事における「延暦八年の征夷」の解説
延暦7年2月28日(788年4月8日)、陸奥出羽按察使・陸奥守の多治比宇美が前年閏5月より空席となっていた鎮守将軍を兼任、安倍猨嶋墨縄が鎮守副将軍に任命された。 延暦7年3月2日(4月12日)、中央政府は陸奥国に軍粮3万5000余斛を多賀城に運ぶこと、東海・東山・北陸諸国に糒2万3000余斛と塩を7月までに陸奥国に運ぶことを指示している。また3月3日(4月13日)には東海・東山・坂東諸国に対して歩兵と騎兵合わせて5万2800余人を徴発して翌年3月までに多賀城に会集させるよう命じている。なお選定にあっては、先の戦いで叙勲された者、常陸国神賤を優先するよう指示している。常陸国神賤は常陸国から菊多・磐城・標葉・行方・宇多・伊具・亘理・宮城・黒河・色麻・志田・小田・牡鹿と38の末社を勧請し、奉幣しつつ陸奥へと進軍している。 延暦7年3月21日(5月1日)、征東副使の人事がおこなわれて多治比浜成、紀真人、佐伯葛城、入間広成の4人が任命された。さらに7月6日(8月11日)には伊治公砦麻呂の乱で征東副使を務めた紀古佐美が征東大使に任命されている。この時の征東使の人事は鎮官、副使、大使の順でおこなわれており、最高位である大使の人事が一番後回しにされているのは異例である。 延暦7年12月7日(789年1月7日)、紀古佐美は長岡京の内裏で桓武天皇より節刀を授けられ「坂東の安危この一挙に在り。将軍勉むべし」と激励を受けて陸奥国へ進発した。 翌・延暦8年(789年)に紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという(巣伏の戦い)。 『続日本紀』延暦8年6月3日条には官軍の純粋な戦闘死は25人とみえ、一方で『続日本紀』延暦8年7月17日条には89人の敵軍兵士の首を取ったとあり、同じ巣伏の戦いにおける官軍と胆沢蝦夷軍の戦闘死者数であるならば、官軍は相当善戦したことになる。しかし延暦8年6月3日条での官軍は阿弖流爲率いる胆沢蝦夷軍に翻弄され、惨敗を喫しているため、その際に敵軍兵士の首を89級も挙げることが出来たとは考えがたい。 そのため延暦八年の征夷では、5月下旬から末頃に起こった巣伏の戦いと呼ばれる第一次胆沢合戦の後に、第二次胆沢合戦が起こっていた可能性が指摘されている。
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