延暦十三年の征夷とは? わかりやすく解説

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延暦十三年の征夷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「延暦十三年の征夷」の解説

延暦11年1月11日792年2月7日)、斯波志波)に住む蝦夷族長胆沢公阿奴志己らが使者陸奥国府に送り王化帰したい日頃考えているが、伊治の俘等が道を遮っているので、国家の力でそれらを制して蝦夷帰降するための「降路」を開いて欲しいと申し出た陸奥国司阿奴志己等に物を与えて放還したので、報告受けた政府は「夷狄の性、虚言にして不実なり。常に帰服称すれども、唯に利のみ是れ求む。今より以後、夷の使者有れども、常賜に加ふること勿れ」と命じている 延暦13年794年)には、再度征討軍として征夷大使大伴弟麻呂征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿田村麿已下蝦夷征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細不明である。しかし、田村麻呂四人副使副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料残っているため、中心的な役割果たしたらしい。

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延暦十三年の征夷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「延暦十三年の征夷」の解説

桓武朝第二次蝦夷征討延暦9年早々から準備はじまった延暦10年1月18日791年2月25日)に兵士動員について具体化すると、坂上田村麻呂百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され兵士簡閲兼ねて戒具検査実施征討軍の兵力10万人ほどであった7月13日791年8月17日)に大伴弟麻呂征東大使任命されると、田村麻呂百済王俊哲多治比浜成巨勢野足とともに征東副使となった軍監16人、軍曹58人と伝わるが、軍曹多さ異例であることから、実戦部隊指揮官級を多くする配慮とも思える実戦経験がないはずの坂上田村麻呂副使として登用され理由不明だが、朝廷からみても坂上田村麻呂戦略家戦術家として能力未知数であった思われる一方延暦11年東北地方では1月11日792年2月7日)に斯波の夷・胆沢公阿奴志己等が陸奥国府に使者送り日頃から王化帰したい考えているものの、伊治の俘等が妨害して王化叶えられない申し出たため、物をあたえて放還したと陸奥国司政府報告している。 政府から陸奥国司に対して夷狄虚言もいい、常に帰服称して利を求めるので、今後は夷の使者がきてもむやみに賜らないことを命じている。これは伊治呰麻呂伊佐西古のように服従した蝦夷寝返ることもあり、報告では伊治の俘とあるため不審から政府言い分としてはもっともであった。 しかし同年7月25日792年8月17日)の勅では夷・爾散南公阿波蘇王化慕って入朝望んでいることを嘉し、入朝許して路次の国では軍士300をもって送迎国家威勢示したとある。 同年11月3日792年11月21日)に阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚吉弥候部荒嶋が長岡京へと入京して朝堂院饗応され、阿波蘇と隠賀は爵位第一等を、荒嶋は外従五位下賜り今後忠誠を尽くすようにと天皇宣命述べている。1月時点7月以降では政府の立場一転しているため、この頃には蝦夷対す懐柔策推進していたのではないか推測できる延暦12年2月17日793年4月2日)、征東使征夷使へと改称され2月21日793年4月6日)には征夷副使坂上田村麻呂天皇辞見おこなった延暦13年2月1日794年3月6日)、弟麻呂征討出発3月16日794年3月21日)には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵報告され3月17日794年4月21日)には参議大中臣諸魚伊勢神宮奉幣せしめ征夷報告している。 同年6月13日794年7月14日)、『日本紀略』には「副将軍坂上大宿田村麿已下蝦夷征す」と短い記事のみあり、『日本後紀』に存在したはずの延暦13年蝦夷征討関係記事散逸しているため、この戦い具体的な経過情況はほとんど不明である。9月28日794年10月26日)には諸国神社奉幣し新京遷ること、および蝦夷征すことを祈願しているため、蝦夷征討継続中であった考えられる10月22日794年11月18日)に長岡京から新京遷都されると、10月28日794年11月24日)に新京到着した報告によると、戦闘終了時に近いとみられる10月下旬時点での官軍側の戦果が「斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」であった11月8日794年12月4日)、新京は「平安京」と名付けられる延暦14年1月29日795年2月23日)、弟麻呂初めて見る平安京凱旋し天皇節刀返上した同年2月7日795年3月2日)には征夷の功による叙位が行われたが詳細は伝わらず従四位下に進んだとみられる2月19日795年3月14日)に木工頭任命された。

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