延暦十三年の征夷
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「日本の古代東北経営」の記事における「延暦十三年の征夷」の解説
延暦11年1月11日(792年2月7日)、斯波村(志波村)に住む蝦夷族長胆沢公阿奴志己らが使者を陸奥国府に送り、王化に帰したいと日頃考えているが、伊治村の俘等が道を遮っているので、国家の力でそれらを制して蝦夷が帰降するための「降路」を開いて欲しいと申し出た。陸奥国司は阿奴志己等に物を与えて放還したので、報告を受けた政府は「夷狄の性、虚言にして不実なり。常に帰服を称すれども、唯に利のみ是れ求む。今より以後、夷の使者有れども、常賜に加ふること勿れ」と命じている 延暦13年(794年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。
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延暦十三年の征夷
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桓武朝第二次蝦夷征討は延暦9年早々から準備がはじまった。 延暦10年1月18日(791年2月25日)に兵士の動員について具体化すると、坂上田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった。 7月13日(791年8月17日)に大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲・多治比浜成・巨勢野足とともに征東副使となった。軍監16人、軍曹58人と伝わるが、軍曹の多さが異例であることから、実戦部隊の指揮官級を多くする配慮とも思える。 実戦経験がないはずの坂上田村麻呂が副使として登用された理由は不明だが、朝廷からみても坂上田村麻呂の戦略家・戦術家としての能力は未知数であったと思われる。 一方、延暦11年の東北地方では1月11日(792年2月7日)に斯波村の夷・胆沢公阿奴志己等が陸奥国府に使者を送り、日頃から王化に帰したいと考えているものの、伊治村の俘等が妨害して王化を叶えられないと申し出たため、物をあたえて放還したと陸奥国司が政府に報告している。 政府から陸奥国司に対して夷狄は虚言もいい、常に帰服と称して利を求めるので、今後は夷の使者がきてもむやみに賜らないことを命じている。これは伊治呰麻呂や伊佐西古のように服従した蝦夷が寝返ることもあり、報告では伊治村の俘とあるため不審から政府の言い分としてはもっともであった。 しかし同年7月25日(792年8月17日)の勅では夷・爾散南公阿波蘇が王化を慕って入朝を望んでいることを嘉し、入朝を許して路次の国では軍士300騎をもって送迎、国家の威勢を示したとある。 同年11月3日(792年11月21日)に阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚・吉弥候部荒嶋が長岡京へと入京して朝堂院で饗応され、阿波蘇と隠賀は爵位第一等を、荒嶋は外従五位下を賜り、今後も忠誠を尽くすようにと天皇が宣命を述べている。1月時点と7月以降では政府の立場が一転しているため、この頃には蝦夷に対する懐柔策も推進していたのではないかと推測できる。 延暦12年2月17日(793年4月2日)、征東使が征夷使へと改称され、2月21日(793年4月6日)には征夷副使の坂上田村麻呂が天皇に辞見をおこなった。 延暦13年2月1日(794年3月6日)、弟麻呂は征討へ出発。3月16日(794年3月21日)には征夷のことが光仁天皇陵と天智天皇陵に報告され、3月17日(794年4月21日)には参議・大中臣諸魚に伊勢神宮に奉幣せしめ征夷を報告している。 同年6月13日(794年7月14日)、『日本紀略』には「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」と短い記事のみあり、『日本後紀』に存在したはずの延暦13年の蝦夷征討の関係記事は散逸しているため、この戦いの具体的な経過や情況はほとんど不明である。9月28日(794年10月26日)には諸国の神社に奉幣して新京に遷ること、および蝦夷を征すことを祈願しているため、蝦夷征討は継続中であったと考えられる。10月22日(794年11月18日)に長岡京から新京に遷都されると、10月28日(794年11月24日)に新京に到着した報告によると、戦闘終了時に近いとみられる10月下旬時点での官軍側の戦果が「斬首457級、捕虜150人、獲馬85疋、焼落75処」であった。11月8日(794年12月4日)、新京は「平安京」と名付けられる。 延暦14年1月29日(795年2月23日)、弟麻呂は初めて見る平安京に凱旋して天皇に節刀を返上した。同年2月7日(795年3月2日)には征夷の功による叙位が行われたが詳細は伝わらず従四位下に進んだとみられる。2月19日(795年3月14日)に木工頭に任命された。
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