延暦寺軍事力との提携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
中世最大の寺社勢力は、顕教の四箇大寺(延暦寺・園城寺・興福寺・東大寺)と密教の三門真言(延暦寺・園城寺・東寺(醍醐寺・仁和寺))で、顕教四箇大寺は僧兵による軍事力に支えられていた。中でも強大だったのが比叡山延暦寺で、四箇大寺と三門真言に両方に数えられている。 当時の延暦寺の中核となったのが三門跡(皇族・公家が住職となる寺院)だが、後醍醐天皇はそれらの長を 梶井(現在の三千院):実子の尊雲(護良親王、大塔宮)、のち天台座主(ざす、最高位の僧侶)、征夷大将軍 妙法院:実子の尊澄(宗良親王)、のち天台座主、南朝征夷大将軍 青蓮院:叔父で亀山天皇皇子の慈道、のち天台座主 と全て親族で固めさせ、武士より質で劣るとはいえ、無視できぬ軍事力を手にした。 元弘の乱では、還俗した護良親王が寺社勢力を率い、正成の千早城の戦いへの後詰(籠城を支援する部隊)として活躍し、鎌倉幕府打倒に貢献した。建武の乱でも、第二次京都合戦に敗れた後醍醐と新田義貞は比叡山に籠城し、最終的に近江の戦いで敗北して降伏したとはいえ、2ヶ月間も足利軍の攻撃に耐えている(『梅松論』下)。 また、後醍醐は三門真言のひとつ東寺にも一定の影響力を有した。
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