堀田正虎・正春・正亮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)
奥平松平家の後、陸奥福島藩より堀田家が再び入部した。藩主はかつて山形藩主だった堀田正仲の双子の弟正虎である。正虎は農政に力を注いだが、幕府の元禄期における生類憐れみの令に絡んでの寺社造営や修復が盛んに行なわれて出費増大の一途を辿っており、堀田家の財政は福島藩主時代から正俊暗殺後の世評や所領削減などで苦しくて家臣の中には堀田家を辞する者も多かったし、家臣の知行から上米を行なっても返却されることはなく家臣は困窮したという。 正虎は享保13年(1728年)10月に大坂城代に任命されてまもなく急死。跡を継いだ養子の正春も在任2年、17歳で死去>。養子の正亮が跡を継いだ。正亮も大坂城代を務めたので、延享元年(1744年)に播磨・河内で4万石を与えられる代わりに出羽村山郡の4万石は収公された。 延享3年(1746年)5月、正亮は老中に抜擢されたため同じ10万石の石高で下総国佐倉藩に転封した。堀田家は3代46年間と山形藩では2番目に長い期間在封した。この際、柏倉4万石が佐倉藩の飛び地(柏倉陣屋)として廃藩置県まで残った。
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