堀田氏の陣屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 03:24 UTC 版)
貞享元年(1684年)、堀田正高は父・堀田正俊の遺領から1万石を分知されることとなり、下野国安蘇郡・都賀郡に所領を与えられて「佐野」を居所とした。『角川地名大辞典』によれば、赤坂・田島・植野の3か村が佐野領に組み入れられ、陣屋は植野村に置かれたという。堀田正高は元禄11年(1698年)に近江国堅田藩に移された。堀田佐野城址公園の文化財解説板では、この城(陣屋)は貞享元年(1684年)に正高が築城したものであるが、正高の移封により、陣屋は廃墟化したという。 文政8年(1825年)、堅田藩領のうち近江国高島郡の領地に代わって下野国安蘇郡に所領が与えられた。堀田正敦は父祖ゆかりの「佐野」の地に居所を移した。堀田家は郊外の植野村に「佐野陣屋」を置くこととした。 文政11年(1828年)陣屋を改めて築いた(堀田佐野城址公園の文化財解説板によれば、正高が築いた陣屋を再興したという)。陣屋には堀と土塁がめぐらされ、郭内に御殿・政庁・家老屋敷や蔵、調練場など、郭外に組屋敷や硝煙蔵などが立地していた。佐野町に近接していたために、陣屋周辺が独自の町場として発展することはなく、藩政時代にも「村」と呼ばれており、名主・組頭・百姓代が置かれていた。 なお、堀田氏は江戸時代を通して定府であり、参勤交代を行っていない。1826年以後の堀田家は佐野と堅田に陣屋を置いて所領の支配を行っていた。 正敦より数えて4代の正頌の時に明治維新を迎えた。佐野陣屋は明治2年(1870年)まで存続したというが、廃藩置県とともに廃城となった。
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