堀田正盛の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:24 UTC 版)
徳川家光のもとで老中を務めていた堀田正盛は寛永15年(1638年)3月、武蔵川越藩3万5000石から6万5000石加増の10万石で入部する。堀田は松本7万石の他、安房と上野の両国に3万石を合わせて10万石である。正盛は春日局の義理の息子で縁戚関係から出世した人物である。正盛自身は老中として江戸で幕政を統括したため、松本に来ることはほとんど無かった。寛永18年(1641年)と寛永19年(1642年)に「巳午の飢饉」と称される飢饉が起こり、その最中の寛永19年(1642年)4月に下総佐倉藩へ移封された。この際、前年の凶作で領内には大量の餓死者が出て年貢の取立が十分にできずに移封しているが、後任の水野家が3年かけて未進分を佐倉に送り届けた。
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