堀田家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:19 UTC 版)
土井家の後は上野国安中より堀田正俊が13万石で入封した。正俊は春日局の養子で、第4代将軍徳川家綱の下で老中を勤めた人物である。家綱が嗣子無く死去した際、第5代将軍に異母弟綱吉を強力に推した功労者で大老酒井忠清と対立した。このため綱吉が将軍になると正俊は大老に任じられて厚い信任を受け、古河藩に13万石を与えられて入封した。正俊は綱吉初期の政権を掌握して天和・貞享の治と称される幕政を行ったが、貞享元年(1684年)8月28日に江戸城において若年寄稲葉正休により刺殺された。死後、第2代藩主には子の正仲が継ぐが、貞享2年(1685年)に出羽山形へ移封された。この際、所領も10万石に減らされたといわれる。
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