堀田佐野藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:31 UTC 版)
「佐野陣屋」および「堅田藩」も参照 貞享元年(1684年)、大老堀田正俊(古河藩13万石)が江戸城中で稲葉正休に刺殺された。正俊の三男の堀田正高は、父の遺領から1万石を分知されることとなり、下野国安蘇郡・都賀郡に所領を与えられて「佐野」を居所とした。『角川地名大辞典』によれば、赤坂・田島・植野の3か村が佐野領に組み入れられ、陣屋は植野村に置かれたという。堀田家の佐野藩については、江戸時代初期の佐野家の佐野藩と区別するため「堀田佐野藩」と称されることがある。 堀田正高は元禄11年(1698年)に近江国堅田藩に移され、所領は再び幕府直轄領となった。正高の移封により、陣屋は廃墟化したという。 正高から4代おいて、堀田正敦は文政9年(1826年)に近江国高島郡の所領に替えて下野国安蘇郡を与えられた。正敦は城地を父祖の地である佐野に移すこととし、植野村に佐野陣屋(植野陣屋)を再興した。これにより佐野藩が「再興」されたとみなされる。 堀田氏は江戸時代を通して定府であり、参勤交代を行っていない。1万6000石の領地は下野・上野・近江3国に分散していた。1826年以後の堀田家は佐野と堅田に陣屋を置いて所領の支配を行っていた。 堀田家支配のもとで幕末・明治維新を迎えた。1871年(明治4年)、廃藩置県によって佐野県となり、次いで栃木県の一部となった。
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