1639年から1670年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:12 UTC 版)
「合同法 (1707年)」の記事における「1639年から1670年まで」の解説
詳細は「共和国時代のスコットランド(英語版)」を参照 1639年から1640年までの主教戦争により長老派のスコットランド国教会における優位が確定、カヴェナンターが政権を握った。1642年に第一次イングランド内戦が勃発すると、スコットランドは最初は中立を表明したが、1642年中に議会派が敗勢を示すと、王党派の勝利によるスコットランドへの影響に憂慮するようになった。また、この時期にはイングランドとの宗教合同が長老制を維持するための最良の方策と考えられるようになった。1643年の厳粛な同盟と契約により、スコットランドはイングランド議会に軍事援助を提供、その代償としてイングランド国教会とスコットランド国教会の合同が約束された。厳粛な同盟と契約ではイングランド、スコットランド、アイルランド間の「合同」(union)が度々言及されたが、政治上の合同はイングランドでも広く支持されたわけではなく、同盟では明示的に合意されなかった。 イングランド国教会では監督制が主流であったが、監督制の支持者は宗教上の合同に強く反対、またオリヴァー・クロムウェルなどの独立派も宗教上の合同に反対した。そのため、スコットランドとイングランドの長老派は独立派の主導するニューモデル軍を王党派よりも大きな脅威としてみるようになり、1646年にチャールズ1世が降伏すると、長老派はチャールズ1世のイングランド王復位に同意した。このとき、王党派とカヴェナンターは君主の即位(institution)については王権神授説で合意したが、国王と教会の権威の本質と範囲では合意できなかった。 1647年から1648年までの第二次イングランド内戦で敗北したスコットランドはイングランド軍に占領されたが、誓約派(英語版)(クロムウェルから戦争責任があると主張された派閥)が政権から追い出され、代わりに長老派が政権を握ると、イングランド軍はスコットランドから撤退した。そして、1648年12月のプライドのパージにより長老派議員が議会を追放され、1649年1月にチャールズ1世が処刑されると、クロムウェルによるイングランドへの(政治上の)支配が確定したが、スコットランドで政権を握っていた長老派は1649年2月にチャールズ1世の息子チャールズ2世によるスコットランドおよびグレートブリテン王(King of Scotland and Great Britain)即位を宣言、イングランド王への復位も約束した。 しかし、スコットランドは1649年から1651年までの第三次イングランド内戦に敗北、イングランド共和国に併合された。併合の理由はクロムウェルが戦争責任を長老派に帰し、長老派の権力を瓦解させようと動いたためだった。1652年に合同令(英語版)(Tender of Union)が、1654年4月12日に「護国卿によるイングランドおよびスコットランドの合同布告」(An Ordinance by the Protector for the Union of England and Scotland)が発され、イングランド、スコットランド及びアイルランド共和国が成立した。布告が1657年6月26日に第二回護国卿議会により批准されたことで、イングランド、スコットランド、アイルランドの3議会が合同され、イングランド議会の議員に加えてスコットランドとアイルランドがそれぞれ議員30名をウェストミンスターの議会に送ることとなった。 合同により共和国内で自由貿易が成立したものの、軍を維持するために重税が課されたため、経済上の利益はほとんどもたらされなかった。この合同はスコットランドでは軍事占領を伴い、イングランドでは重税を伴って行われたため、どちらにもほとんど支持されず、1660年のイングランド王政復古に伴い合同も解除された(共和国議会のスコットランド選出議員からは合同継続の請願があった)。 イングランドが1660年と1663年の二度にわたって航海条例を制定、さらにスコットランドの輸出先であるネーデルラント連邦共和国との英蘭戦争に踏み切った結果、スコットランドの経済は大きな被害を受けた。1668年1月にはイングランド・スコットランド通商委員会(Anglo-Scots Trade Commission)が設立されたが、イングランドがスコットランドから得られる利益が少なかったため譲歩に同意せず、委員会は成果を上げられなかった。チャールズ2世は1669年に合同に関する議論を再開したが、これはジェームズ1世が果たせなかった野望を果たそうとしたことと、スコットランドと敵国オランダの間の通商関係と政治上の関係を断ち切ることが目的だった。このときもイングランドとスコットランドの両方で反発され、年末には交渉が中止された。
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