ジョン・リード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 01:27 UTC 版)
ジョン・リード
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1915年頃のリード
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生誕 | ジョン・サイラス・リード 1887年10月22日 ![]() |
死没 | 1920年10月17日 (32歳没)![]() |
死因 | ツツガムシ病 |
墓地 | クレムリン共同墓地 |
国籍 | アメリカ |
教育 | ハーバード大学 |
職業 | ジャーナリスト |
政党 | アメリカ共産労働党 |
配偶者 | ルイーズ・ブライアント |
署名 | |
ジョン“ジャック”・サイラス・リード(英語: John "Jack" Silas Reed, 1887年10月22日 - 1920年10月19日)は、アメリカ合衆国出身のジャーナリストおよび活動家。ロシア革命のルポルタージュ『世界を揺るがした10日間』で知られ、ソ連で英雄とされた。
人物
リードはオレゴン州ポートランドで生まれた。ポートランドの住民は彼を誇りに考えているが、自著によるとリードはポートランドに愛着を持っていなかった。1910年にハーバード大学に通うためにポートランドを去り、二度と戻らなかった。彼は労働者ストライキへの同情的な報道およびメキシコ革命のルポルタージュで有名になった。
リードは第一次世界大戦中のヨーロッパでロシア革命の始まりを聞き、1917年にロシアへ向かった。彼は自身の体験やウラジーミル・レーニンへのインタビューなどをロシア革命のルポルタージュとしてまとめ、『世界を揺るがした10日間』を刊行した。この書には後にレーニン夫妻(ウラジーミル・レーニンとナデジダ・クルプスカヤ)が序文を寄せ、「世界の労働者達に無条件で推薦する」と賞賛した。レーニンはリードに100万米ドルの活動資金を提供した[1]。
1920年、リードはモスクワでチフスのため死去した。現地で葬儀が行われた後、ソ連の英雄として赤の広場にあるクレムリンの壁墓所に埋葬された。アメリカ人でこの場所に埋葬された人物は、アメリカ共産党書記長であったチャールズ・ラッテンバーグと世界産業労働組合の指導者ビル・ヘイウッド、そして彼だけである。
親交
リードと作家、女性運動家である彼の妻ルイーズ・ブライアントは作家のユージン・オニールと親しかった。
没後

1929年に、ジョン・リードの名を冠した共産党のプロパガンダ機関である革命的作家集団「ジョン・リード・クラブ」がニューヨークで結成された[2]。画家の石垣栄太郎や野田英夫ら在米の左派系日本人作家も参加した。機関誌として『ニュー・マッセズ』『パーティザン・レヴュー』を刊行(後者は2年で休刊、再刊後は反政治・反スターリニズムを掲げた文芸誌となった[3])。
映画『レッズ』(ウォーレン・ベイティ主演、1981年)は、後半生を描いている。
日本語文献
- ※『世界を揺るがした10日間』は、世界を揺るがした10日間#日本語版一覧項目を参照。
- 『反乱するメキシコ』 野田隆・草間秀三郎・野村達朗訳、筑摩叢書[4]、1982年
- 研究・評伝
脚注
- ^ ヴィクター・セベスチェン『レーニン 権力と愛』三浦元博・横山司 訳、白水社、2017年、下、p.280
- ^ 樋口秀雄「30年代におけるアメリカ知識人の動向 ― ラップの解散とジョン・リード・クラブの解散 ―」『社会科学』第17巻、同志社大学人文科学研究所、1974年3月、121-156頁、CRID 1390853649841638400、doi:10.14988/pa.2017.0000007815、 ISSN 0419-6759、 NAID 120005635633。
- ^ 『現代世界の十大小説』池澤夏樹、ボイジャー, Dec 11, 2014
- ^ 旧版は小川出版、1970年
外部リンク
関連項目
- ボードマン・ロビンソン - 1916年にリードが出版した『The War in Eastern Europe』の挿絵画家
ジョン・リード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/06 23:00 UTC 版)
「2007年イギリス労働党党首選挙」の記事における「ジョン・リード」の解説
内務大臣。出馬の意向については明らかにしていなかったが、5月6日にブラウンへの支持と、ブレア退陣と共に内閣を去ることを表明した。
※この「ジョン・リード」の解説は、「2007年イギリス労働党党首選挙」の解説の一部です。
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