戦犯調査
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「アレクサンドラ病院事件」の記事における「戦犯調査」の解説
戦後、この事件の戦犯調査にあたったワイルド大佐は、1945年10月28日、米軍によってマニラに拘留されていた山下奉文元第25軍司令官を尋問した。 山下は、今まで事件について聞いたことがなく、「このような無分別で暴虐な事件を犯すのは大馬鹿者だ」と言った。ワイルドが、事件後に日本軍の将校が謝罪に訪れているので、日本軍が虐殺事件を公式に知っていたのは立証できると伝えると、山下は当時の第18師団の師団長・牟田口廉也中将の名前を明かし、謝罪に訪れたのはおそらく第18師団麾下の部隊の将校で、牟田口に責任があるから、日本にいる牟田口を尋問すべきだ、と話した。 牟田口は1945年12月に逮捕された。 ワイルドは、牟田口の尋問を予定しており、1946年9月11日に証人として出廷した東京裁判でもアレクサンドラ病院の事件について証言していたが、東京裁判からの帰路、香港で事故死した。 1946年10月、牟田口はイギリス軍シンガポール裁判のためシンガポールへ移送され、同年12月7日に取り調べを受けたが、アレクサンドラ病院の事件については問題とされず、起訴されることはなかった。
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戦犯調査
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戦後、戦犯調査にあたったワイルド少佐(1946年2月に大佐)は、セララン兵営での事件について調査し、通訳を尋問して4人の処刑と、命令したのが福栄少将であることについて証言を得た。 福栄少将(1942年12月に中将)は敗戦時第102師団長としてフィリピンに居たが、シンガポール裁判の戦犯容疑者第1号として召喚された。 インド人の銃殺隊を指揮し、自らも発砲したインド国民軍のラナ大尉はデリーで逮捕された。
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戦犯調査
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戦後の1946年9月、英軍ワイルド戦犯調査局長は、シンガポールを訪れたシンゲップ島の元アミール・シララビから「1944年12月に襲撃隊の10人がリンガ列島で捕えられ、シンゲップ島に捕虜として抑留された後、シンガポールに連行された」という話を聞き、同年10月にシンゲップ島に居残っていた憲兵隊を拘束した際、地元警察署が作成した入島記録で1944年12月18・19日に白人6人が入島し同月23日にシンガポールに送られ、12月28日に別の白人3人が入島し1945年1月8日にシンガポールへ護送されていたことを確認した。またシトク島の憲兵詰所を捜索した際に押収した書類の中からリマウ隊員逮捕のメモを発見し、古田通訳を逮捕してリマウ作戦と軍律裁判の経緯について尋問した。 またワイルドは、第7方面軍法務部の神谷少佐が司令部の焼却命令に反して事務所に残していた日本軍の軍律裁判の公式記録を入手し、内容を吟味した。 その結果ワイルドは正式に古田を釈放し、オーストラリア陸軍本部に、事件を裁いた日本軍の裁判に違反は見られないため、「リマウ」の事件についてそれ以上訴追しない旨の報告を行った。
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