戦犯被疑者としての獄中、そして放免
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:16 UTC 版)
「岸信介」の記事における「戦犯被疑者としての獄中、そして放免」の解説
1945年(昭和20年)8月15日に戦争が終結した後故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。 自殺する政治家や軍人もいたなか、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない。」「侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として臨んだ。また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べている。 他にも獄中で書いた『断想録』で新日本は海国として再出発すべきで、「吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と世界を驚倒する進歩発展を遂げた。仮令一敗地に塗れたとは云へ、此の国民的優秀性は依然として吾等の血に流れて居るのである。(中略)国民的矜持も国民の内省による国民的自覚の上に立つものである」と書いた。さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになった。 極東国際軍事裁判(以下東京裁判)については「絶対権力を用いたショーだったのである」と述べている。また中国の内戦については、「支那が中共の天下となれば朝鮮は素より東亜全体の赤化である。米国の極東政策は完全にソ連に屈服することになる」と米ソ対立が深まるのを見極めつつ、反共のためならアメリカとも協力するようになっていったといわれ、大アジア主義者である他方現実主義者でもあった。 東京裁判では開戦を実質的に決めた1941年(昭和16年)11月29日の大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯(ひる)まず東条内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたことなどの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴となり放免された。ただし、多くの戦争指導者同様、公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。
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