リマウ作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 02:50 UTC 版)
リマウ作戦(リマウさくせん)は、1944年10月に、英国陸軍のイバン・ライアン中佐ら英濠軍の特殊部隊(Z Special Unit)が、日本軍が占領統治していた昭南特別市(シンガポール)の昭南港で、前年のジェイウィック作戦に続いて2度目の日本艦船爆破を計画した作戦。「リマウ」はマレー語で「虎」を意味するため、虎作戦とも呼ばれる。地元住民や日本の監視船に発見されて計画は未遂に終わり、日本軍との戦闘でライアン中佐らは戦死、隊員10人が捕虜となった。捕虜は1945年7月にシンガポールで開かれた日本軍の軍律裁判により全員処刑された。[1]
- ^ この記事の主な出典は、遠藤(1996)および篠崎(1976) 196-203頁。
- ^ マレー語で「虎」の意味(遠藤(1996) 71頁)。
- ^ a b c 遠藤(1996) 67-74頁
- ^ 1942年5月の日本軍による特殊潜航艇によるシドニー港攻撃の際に、シドニー湾を襲撃して自爆した日本の特殊潜航艇を引揚げて、それを見本として魚雷を装備せず機雷設置を行うための潜水艇を開発したもので(篠崎(1976) 196頁)、本来の英名「Submergible Boat」から「Sleeping Beauty(眠れる美女)」の愛称で呼ばれていた(遠藤(1996) 69頁、篠崎(1976) 196頁)。
- ^ 遠藤(1996) 74-78頁。ブラッドリー(2001) 151,162頁では「9月11日」
- ^ 遠藤(1996)74-78頁、ブラッドリー(2001)151頁。ブラッドリー(2001)162頁の引用文中では「西オーストラリア州パース」。
- ^ ブラッドリー(2001)151-152,162頁、遠藤(1996) 74-78頁。
- ^ 北緯0度07分19秒 東経107度13分18秒 / 北緯0.121966度 東経107.221584度
- ^ ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁
- ^ その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁)
- ^ 篠崎(1976)P.197
- ^ 遠藤(1996) 81頁
- ^ 北緯1度04分25秒 東経103度49分26秒 / 北緯1.073507度 東経103.823762度
- ^ 遠藤(1996) 84-86,145頁
- ^ 遠藤(1996) 86-87頁。このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島(北緯1度08分59秒 東経103度53分06秒 / 北緯1.149705度 東経103.884879度)の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる(遠藤(1996) 90頁)。
- ^ 北緯0度49分54秒 東経104度21分34秒 / 北緯0.831541度 東経104.359517度
- ^ 北緯0度51分30秒 東経104度23分16秒 / 北緯0.858275度 東経104.387798度
- ^ 北緯0度46分29秒 東経104度26分00秒 / 北緯0.774824度 東経104.433450度
- ^ 遠藤(1996) 90-102,146頁。
- ^ ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した(遠藤(1996) 146頁)。
- ^ 残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り(遠藤(1996) 106-107頁)、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された(遠藤(1996) 111頁)。
- ^ 遠藤(1996) 102-106,146-147頁。
- ^ 北緯0度59分23秒 東経104度49分44秒 / 北緯0.989750度 東経104.828796度
- ^ 北緯1度08分09秒 東経103度49分38秒 / 北緯1.135873度 東経103.827109度
- ^ 遠藤(1996) 106-108頁。潜水艦「ポーパス」でオーストラリアに戻っていたチャップマン少佐は、1944年10月16日に「潜水艦「タンタラス」で隊員救出のため西オーストラリアのフリーマントル港を出港しメラパス島へ向かったが、隊員と合流できずに同年12月6日に帰港した(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996)107-108頁)。タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた(ブラッドリー(2001)152-153頁、遠藤(1996)107-108頁)。帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった(遠藤(1996) 216-218頁)。1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した(遠藤(1996) 216,218頁)。
- ^ 遠藤(1996) 109-110頁
- ^ 北緯0度10分37秒 東経104度13分21秒 / 北緯0.177083度 東経104.222593度
- ^ このうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した(遠藤(1996) 110頁)
- ^ 南緯0度17分58秒 東経104度26分54秒 / 南緯0.299376度 東経104.448395度
- ^ 遠藤(1996) 10-111頁
- ^ 遠藤(1996) 111,147-148頁
- ^ ブラッドリー(2001)163頁および篠崎(1976)198頁では、生存者はシンゲップ警察署から昭南水上憲兵隊(シンガポールのケッペル波止場にあった(篠崎(1976) 41頁、遠藤(1996) 143頁))に護送された、としており、遠藤(1996)はシトク(Setoko)島(北緯0度56分39秒 東経104度03分44秒 / 北緯0.944138度 東経104.062178度)に連行されたとしている(148頁)。
- ^ 遠藤(1996) 111頁
- ^ 戦後チモール方面で捕まった日本兵の戦犯裁判の記録から、行方不明となった隊員3人はなおも南下を続け、カタポンガン島で高熱で意識障害を起こしたウォーン一等兵が脱落し、その後意識を回復してマカッサルへ下ったものの、日本軍に捕獲され、他の連合国軍の捕虜と共に第二南海方面艦隊付きの軍医の生体実験の実験台になり、スラバヤの海軍病院で死亡したこと、ウイラーズドルフ准尉とペイス上等兵の2人は、ロマン(Romang)島(南緯7度32分38秒 東経127度24分12秒 / 南緯7.543807度 東経127.403273度)で日本軍に捕えられ、拷問にかけられた後放置されて死亡していたことが分かっている(遠藤(1996) 111-113頁)。
- ^ 篠崎(1976) 199頁。
- ^ 捕虜6人を迎えた水上憲兵隊の隊長は、身なりを整えさせるなど異例の対応を行い、第7方面軍から通訳として派遣されてきた古田博之の助言を受けて丁寧な訊問を行い、初期調査は2ヶ月という異例の長さで行われた(遠藤(1996) 142-159頁)。水上憲兵隊での初期調査の後、1945年3月に隊員はオートラム刑務所に移されたが、ここでも他の囚人や捕虜とは別の特別室に移され、書籍や甘味、特別食が与えられ、世話係として古田通訳がつけられた(篠崎(1976)199頁、遠藤(1996)142-159,194頁)。
- ^ その場合、隊員は間違いなく死刑になると予想された(遠藤(1996) 165頁)
- ^ 遠藤(1996) 159頁
- ^ 5月末に南方軍総司令部の法務部長・日高少将の承認を受け、起訴が決定したため、軍律裁判の準備が進められた(遠藤(1996) 159-165頁)
- ^ ブラッドリー(2001) 166頁、篠崎(1976)199頁
- ^ ブラッドリー(2001) 163頁および篠崎(1976) 199頁では7月5日
- ^ ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 167-193頁、篠崎(1976) 199-200頁
- ^ ブラッドリー(2001) 163-164頁、遠藤(1996) 190-192頁、篠崎(1976) 199-200頁
- ^ “Operation Rimau What went wrong”. Australian Bunker & Military Museum Pty. Ltd.. 2023年1月1日閲覧。
- ^ a b 古田通訳の戦後のインタビューによると、処刑の方法は報告上は銃殺刑とされたが、実際には斬首されていた(遠藤(1996) 197-199頁)。
- ^ 篠崎(1976) 200-201頁によると「ブキテマ路から西へ入るレホマトリー(Reformatory)路(現クレメンティ路)の少年院の裏庭、ゴムのまだらな丘の上で」
- ^ 遠藤(1996) 193-201頁、篠崎(1976) 200-201頁
- ^ 処刑の数日後、憲兵隊の1人が刑場の片隅に「虎工作隊終焉の地」と書かれた簡素な碑を立てた(遠藤(1996) 196頁)。
- ^ ブラッドリー(2001) 158-161頁
- ^ 遠藤(1996) 139-142,202-205頁
- ^ 遠藤(1996) 167-168頁
- ^ 遠藤(1996) 203-206頁
- ^ その後ワイルドは古田に通訳を依頼し、1946年1月に始まったシンガポールでのBC級戦犯裁判でも古田に通訳を依頼している(遠藤(1996) 206頁)。
- ^ ブラッドリー(2001) 162頁のワイルドの手記では、日本人関係者のうち1人は監視の網をくぐって脱走し、降伏のときに自殺したとされている。
- ^ 篠崎(1976) 202頁
- ^ リマウ作戦については隊員全員が死亡しており、証言者が不在だったため勲功は行われなかった(篠崎(1976) 202頁)。
- ^ 篠崎(1976) 201頁
- ^ 篠崎(1976) 202-203頁
- 1 リマウ作戦とは
- 2 リマウ作戦の概要
- 3 戦犯調査
- 4 参考文献
- リマウ作戦のページへのリンク