横浜BC級戦犯裁判の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 09:46 UTC 版)
「能崎事件」の記事における「横浜BC級戦犯裁判の経過」の解説
GHQによる事件の本格的な調査は大戦後の1946年頃から行われはじめた。殺害に関係があるとみなされる軍人・町民をはじめ、町長や警防団長などの町の有力者が次々とGHQの事情聴取を受けた。町では「うかつにしゃべると、戦犯として進駐軍に引っ張られるぞ」と囁かれ、学校でも「一切このことについては言うな。言えばアメリカに連れて行かれ奴隷にされるぞ」と箝口令が敷かれ、町民の中には精神異常者を装い聴取を免れた者や、町民による流言や密告も行われた。 1948年4月12日から5月13日にかけて、横浜地方裁判所の建物で開かれた横浜軍事法廷においても軍人・町民同士によって罪のなすり合いが行われるなど混乱を極めた。最終的に裁判では師団長の能崎清次陸軍中将、同高級副官の笠井平馬陸軍少佐、佐原町民7名には直接関与はないと認められて無罪となった。一方、スキャンラン中尉を司令部から出すことを許可した参謀長が重労働40年の実刑を受け、他の2名の軍人が重労働の実刑、他の町民4名が重労働1年の実刑を受け幕を閉じた。
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