スロベニア人の定住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)
「スロベニアの歴史」の記事における「スロベニア人の定住」の解説
536年、スラヴ人はスプリト周辺へ現れた。548年には現在のアルバニアのドゥラスまで南下した記録が残されている。さらにビザンツ帝国の歴史家プロコピオスとテオファネス (en) によれば、539年、550年、559年にイリュリア州へスロベニア人が侵入したことが記録されている。しかし、この後、567年にアヴァール人が襲来、その周辺のゲルマン民族らはイタリアへ追いやられることとなった。アヴァール人はそこに定住するがイリュリクム、ノリクム周辺らはスラヴ人らが定住、彼らはアヴァール人らが背後にいる事を頼みにイストリア半島やベネト地方まで侵攻、さらにオーストリアのドライヘーレンシュピツェやダッハシュタイン、ハールシュタットまで至る事となった。そのため、7世紀にはサヴァ川、ドナウ川周辺、ダルマチアはスラヴ人らが占領する事となった。 この時代、フランク人のサモがアヴァール人へ抵抗するスラヴ人を支援してこれを勝利させ、さらにフランク王国、ゲルマン系のアレマン族 (en) 、ランゴバルド族にも勝利した上でサモ帝国 (en) を開いたとされているが、この中にスロベニア人(カランタン=スロベニア人、アルプス・スロベニア人とも)が支配下にあったとされている。このサモ帝国はサモが死去したことにより崩壊、スロベニア人は再びアヴァール人の支配下となった。 626年から630年の間にスラヴ人らはアヴァールへの反乱を起こしてカランタニア公国 (en) を創設、サモ帝国の一翼を成したと考えられている。カランタニア公国はアヴァール人との戦いを繰り返すこととなるが、745年、バイエルン公国へ支援を要請、この支援とともにキリスト教が伝来することとなり、ザルツブルク司教座 (en) が設置される事となった。しかし、キリスト教が無条件で受け入れられたわけではなく、772年、バイエルンのキリスト教による教化活動への反抗から反乱が発生、バイエルン公国タシロ3世 (en) 公はこれを鎮圧した。 しかし、徐々にフランク王国の手が伸びてくることにより、クロアチア人のリューデヴィト・ポサヴスキ (en) らと共にフランクとの戦いを行ったが、リューデヴィトはカランタニア公国を廃止した。これは778年にカロリング朝フランク王国がフランク王国辺境部をバイエルン公国を元として設立された辺境伯領に組み込んだためであった。このため、スロベニア人はスロベニア語こそ使う事は許されたものの、農奴と化すこととなる。 さらに896年、ハンガリー王国が成立したことによりフランク王国は隣接地域の要塞化に着手、さらにフランク王国が分裂すると東フランク王国王オットー1世は952年、スロベニア一帯を含む地域をカランタニア公領と定めたが、このことからスロベニア人らはドラヴァ川まで進出することとなる。その後、カランタニア公領はエスト辺境伯、カリンティア辺境伯 (en) 、ドラヴァ川流域地方、サヴァ川流域地方、イストリア地方に分割されたがいずれもスロベニア人らが定住しており、神聖ローマ帝国東国境を形成、クロアチアと分断されることとなった。その後、神聖ローマ帝国領として「カリンティア(スロベニア語、コロシュカ)」、「スティリア(シュタイエルスカ) (en) 」、「カルニオラ(クランスカ) (en) 」の三公国に再編成されることとなる。なお、この時代の972年から1039年の間に、キリスト教伝道のために書かれた「ブリジンスキ・スポメニキ(フライジング写本) (en) 」はスロベニア語で文章が記述されており、他にも写本が存在する。 しかし13世紀末、ヴェネツィア共和国が勢力を伸ばす事により、イストリア半島やアドリア海沿岸部は1727年までヴェネツィアが支配することとなった。そしてローマ教皇の計画により、アクイレイア総司教座(it)がザルツブルク司教座へ圧力をかけたことによりカリンティア、スティリア、カルニオラら三公国はボヘミア王オットカル2世が支配する事となった。こうしてスロベニアはオットカル2世のプシュミスル家とハプスブルク家が支配することとなるが、オットカル2世は1278年、マルヒフェルトの戦い (en) においてハプスブルク家のルドルフ1世に敗北、三公国はハプスブルク家支配下となる。
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