第二次世界大戦とユーゴスラビアとは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦とユーゴスラビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/20 09:46 UTC 版)

ダルマチア・イタリア人」の記事における「第二次世界大戦とユーゴスラビア」の解説

ユーゴスラビア王国1941年ドイツ国防軍によるユーゴスラビア侵攻占領されダルマチア一部ザダル首都とするダルマチア総督領としてイタリア王国併合された。地元住民は、ファシスト政府による猛烈なイタリア化を強制された。悪名高いゴナルス強制収容所ラブ強制収容所を含む数カ所の強制収容所が、"国家の敵"を収容するためイタリア当局によって設置された。イタリア当局は、後背地ダルマチア諸島内部への支配維持できなかったが、これらの地域戦時期の大半パルチザンによって支配されていた。 1943年イタリア降伏により、ドイツ軍ダルマチアイタリア支配地域短期間パルチザン支配後に占領した(公式には、ダルマチア総督領はナチス傀儡国家クロアチア独立国支配下にあった)。この時期に、沿岸都市住民大部分パルチザン加わった人口の1/3が都市去ったスプリトが最も顕著であった)。一方で多くイタリア守備隊パルチザン部隊として戦う義務捨て、また他の守備隊武器設備譲渡し降伏するよう強いられていた。1944年ソビエト軍バルカン半島進軍してくると、小規模な撤退ザダル生じた一方でヨシップ・ブロズ・ティトー率いパルチザン1942年以降連合国みなされていた)が、枢軸国側占領下ダルマチア残り解放しようと同時に動き出していた。スプリトは、連合国側解放されクロアチア臨時首都となった1943年から1944年にかけてのザダルは、連合国側による激し空襲en)に見舞われ激しく破壊され数多く民間人死者出したパルチザンザダル解放したとき、多く民間人が既にイタリアへ逃れていた。 第二次世界大戦後イタリアダルマチアに残る全てのイタリア領を新国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国へ割譲したダルマチア残留したイタリア人のほぼ全てが、このためにさらに移住行ったザダルイタリア人学校は、トリエステをめぐるイタリアユーゴ間の対立によって1953年閉鎖された。現在、クロアチア領のダルマチア300人前後のイタリア人がおり、モンテネグロ沿岸部にはおよそ500人のイタリア人がいる。

※この「第二次世界大戦とユーゴスラビア」の解説は、「ダルマチア・イタリア人」の解説の一部です。
「第二次世界大戦とユーゴスラビア」を含む「ダルマチア・イタリア人」の記事については、「ダルマチア・イタリア人」の概要を参照ください。

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