第二次世界大戦とソ連の収奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 07:24 UTC 版)
「システィーナの聖母」の記事における「第二次世界大戦とソ連の収奪」の解説
『システィーナの聖母』は第二次世界大戦でのドレスデン爆撃の被害からは守られた。しかしそのときの保存状態と、その後この絵画がたどった歴史は議論の的になっている。当時『システィーナの聖母』は戦禍を避けて、他の絵画とともにザクセンスイス(en:Saxon Switzerland)の坑道に保管されていた。しかしソヴィエト赤軍がこれらの絵画を発見、押収し、一時的にピルニッツ(en:Pillnitz)に移動した後に、天蓋に防水布を張っただけの長距離貨物列車に箱詰めにしてモスクワへと持ち去った。そして『システィーナの聖母』が収蔵されたプーシキン美術館の館長ミハイル・クラフチェンコは、プーシキン美術館が世界有数の美術館となったとの声明を出した。 1946年には『システィーナの聖母』は、ソ連が回収した他の絵画とともに観覧が制限された状態でプーシキン美術館に展示されていた。その後、ヨシフ・スターリンの死去後1955年にソ連は「ソヴィエトとドイツ国民の友情をさらに強く進めるために」この絵画をドイツ(当時の東ドイツ)へ返還することを決めた。その後、ドレスデンから美術品を持ち去る際に、ソ連が何らかの損傷を絵画に与えたのではないかという国際的な議論が巻き起こった。これに対しソ連は、自分たちは逆に絵画を守ったのだと反論した。絵画が保管されていたザクセンスイスの坑道は温度制御されていたが、ソヴィエト軍の広報担当者の説明によれば、赤軍が絵画を発見したときには温度制御装置は稼動しておらず、絵画は地下の湿気に満ちた環境に放置されていたとしたのである。 結局『システィーナの聖母』が坑道で発見されたときの状態に対する議論は、学術的な裏づけなしに噂だけが一人歩きしてしまった。。しかし、1991年のアートニューズ(en:ARTNews)に掲載された記事によると、1945年に美術品の調査のためにソ連からドイツに派遣されたロシア人美術史家アンドレイ・チェゴダエフがソ連の反論を否定している。 これは厚顔無恥とも言えるひどい嘘だ。「陰鬱な薄暗い坑道のなかで、数人の赤軍兵士がひざまで水につかりながら『システィーナの聖母』を担いで運ぼうとした。しかし額装がなされていたため運搬には12人もの頑健な兵士が必要だった」などといった『システィーナの聖母』の発見救出について一般に思われている印象は全くのでたらめである。 さらにアートニューズは『システィーナの聖母』を発見した赤軍旅団の指揮官の話は「単なる嘘」であるとしている。1950年代にソ連の官報(en:Literaturnaya Gazeta)には「実際には『システィーナの聖母』や他の絵画が保管されていた坑道は乾燥していた。そこには温度、湿度などを計測するさまざまな機器が設置されていた」と書かれた書簡が掲載されている。しかしこれらの情報が事実かどうかには関係なく、絵画は薄暗い水浸しの坑道で発見されたということが一般大衆の認識となり、多くの書物に「事実」として書かれてしまった。 『システィーナの聖母』はドイツ返還後に修復され、アルテ・マイスター絵画館に展示されている。絵画館のガイドブックはこの絵画のことを「最も有名」、「頂点」、「傑作」、「コレクションの白眉」などさまざまな形容詞で説明している。
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