第二次世界大戦とエジプト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)
「エジプトの歴史」の記事における「第二次世界大戦とエジプト」の解説
「エルヴィン・ロンメル」および「ドイツアフリカ軍団」も参照 1939年9月1日、アドルフ・ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。大戦勃発後エジプト政府は駐留イギリス軍の増強を受け入れたものの、中立の維持を目指して工作を続けた。イギリスはエジプトの非協力的姿勢を攻撃し、国王ファールークに圧力をかけて1940年に親英派のハッサン・サブリ(英語版)を首相に任命させた。1940年9月13日、ロドルフォ・グラツィアーニ率いるイタリア軍がエジプトに侵攻した。これは独立国エジプトへの侵略行為であったが、エジプト国内ではむしろドイツ・イタリアの助けを借りてイギリスの支配から脱却するべきという世論が強く、国論を二分した。ハッサン・サブリは両者からの板挟みの心労から間もなく死亡した。 イタリア軍は敗退を繰り返し翌年初頭にはイギリス軍によって全リビアのイタリア軍が降伏に追い込まれた。しかしイタリア軍の降伏後、エルヴィン・ロンメル率いるドイツアフリカ軍団がリビア・エジプトでイギリス軍と戦いを繰り広げた。ロンメルは敵であるイギリス側からも称えられるほどの采配を示し、イギリス軍をエジプト領内まで押し戻した。エジプトを含むアラブ地域ではこのドイツ軍の前進に動揺が走り、エジプトでもドイツ軍を歓迎するデモ行進が発生するなど反英派が勢いづいた。この事態を危惧したイギリスは国王ファールークに圧力をかけ、反ファシズム的であったワフド党の元首相ナッハースを首相に復帰させようとした。1942年2月4日、ファールークは2,000人のイギリス軍に王宮が包囲される中でナッハースを首相に任命したが(2月4日事件)、この事件はエジプトが結局のところイギリスの支配下にあり続けていることを内外に示すものとなり、圧力に屈したファールークとイギリスの後ろ盾を得て組閣したナッハースおよびワフド党の評判は地に落ちることになった。ただしナッハースはそれでも内政・外交両面で多数の業績も残した。内政面では小規模地主への減税や最低賃金の導入、教育費の低減などによる民生の改善、外交面ではイラク首相ヌーリー・アッ=サイードの提唱によるアラブ連盟の組織において、その本部をカイロに誘致したことなどがある。 ドイツ軍は1942年10月23日に始まったエル・アラメインの戦いで敗退し、翌年にはアフリカの全ドイツ軍が降伏してエジプトが直接関与する戦闘は終了した。1945年5月7日、ドイツは降伏しヨーロッパにおける第二次世界大戦は終了した。
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