第二次世界大戦と1940年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 16:24 UTC 版)
「ニュージャージー州の歴史」の記事における「第二次世界大戦と1940年代」の解説
第二次世界大戦中、ニュージャージー州の造船所は多くの軍用船の建造の責任を持たされ、戦艦、空母、重巡洋艦や駆逐艦を建造した。戦争中の連合軍関連の契約の9%を受注した。当時のニュージャージー州人口の10%以上にあたる50万人が戦争に参加したので、多くの女性は夫のいない間の仕事を引き受けた。ドイツのUボート (U-869(英語版))が1945年にニュージャージー海岸沖で沈没した。 ニューヨークの港として機能するブランズウィック近くのキャンプ・キルマーが出征準備をする場所となった。キャンプ内の建物はカムフラージュとなるように塗装された。キャンプ・キルマーは軍人に医療を行う場としても、また物資を補給する場ともなった。このキャンプは後の朝鮮戦争や1956年のハンガリー動乱でも再度機能した。ディックス砦は出征する兵士の訓練場として再開された。モンマス郡のアール海軍武器庫は海軍軍備品の生産のために開設され、武器弾薬を積み込む安全な港ともなった。 1941年8月2日にミルビル空港が開港した。ここは戦闘機乗りの射撃訓練場として建設されたので、「アメリカで最初の防衛空港」と呼ばれた。ハンコック砦がサンディ・フックに開設され、砦の砲手にはドイツ軍の潜水艦がニューヨーク港に入ってくることを阻止する役目が与えられた。現在ではマクガイア空軍基地となっている飛行場が1937年にラッド飛行場として開設され、ディックス砦のための陸軍飛行場として機能した。ここは戦争中に拡張され、1949年には空軍に引き渡された。 日本人、ドイツ人およびイタリア人の子孫を収容する強制収用所がグロースターに設けられた。さらに、シーブルック農場は生産性を上げるために日本人労働者を使った。政府は強制収容所から少数集団がそこで働くことを認めた。第二次世界大戦の終結と共に、政府は強制収容所を閉鎖したが、多くの人がシーブルック農場で働き続けた。 1947年、現在も続くニュージャージー州憲法が批准され州政府を再組織することになった。知事の任期はそれまでの3年間から4年間になり、議会は定員40名の上院と定員80名の下院で構成されることになった。新憲法は婦人と非白人の参政権を復活させた。 ウィキソースにen:New Jersey Constitution of 1947の原文があります。
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