第二次世界大戦とキリスト教主義学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:05 UTC 版)
「キリスト教主義学校」の記事における「第二次世界大戦とキリスト教主義学校」の解説
日本では第二次世界大戦に突入するとキリスト教主義学校に様々な圧力が掛けられ、戦時の方針に沿わない教師らが退職を余儀なくされたほか教課の改廃なども行われた。なかには校名変更を余儀なくされた学校もあった(例:フェリス和英女学校→横浜山手女学院、普連土女学校→聖友女学校など)。 1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)にかけてプロテスタント諸教派の神学校の統廃合が進められ、青山学院や関西学院などの神学部も廃止された。辛うじて存続を認められた同志社大学の神学科も学徒出陣によって授業継続はほぼ不可能となり、大学にとどまった神学者らの研究活動によって命脈をつなぐのみとなった。 戦後、連合国軍最高司令官総司令部はキリスト教主義学校において行われていた信教自由に反する行為を問題視し、日本政府に大学、専門学校、中等学校など81校において戦時中の解職者やカリキュラムの改廃などの調査を命じた。この結果、立教大学ではキリスト教主義学校としての特色を一掃し、戦後も信教自由の回復を講じなかったとして、当時の総長、中学部校長、学生監ほか8人に即時解職、公職追放処分が命じられている。
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