第二次世界大戦とトリエステ帰属問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/04 22:48 UTC 版)
「イストリア半島」の記事における「第二次世界大戦とトリエステ帰属問題」の解説
「トリエステ自由地域」も参照 第二次世界大戦においては、イタリアの無条件降伏の後はドイツ軍が実質的な支配を行った。ドイツの降伏直前には北イタリア側からは連合軍が、南側からヨシップ・ブロズ・チトー率いる、パルチザンがイストリアの港湾都市トリエステに侵入。現在イタリア領になっている地域(右図A地区)をイギリス軍を主体とする連合軍が、現在スロベニアおよびクロアチア領となっている地域(右図B地区)をユーゴスラビア軍が占領した。ここでイタリアとユーゴスラビアとの間でトリエステの領有が問題になった。当時、ユーゴスラビアは完全にソ連側の陣営と見られていたため、重要港であるトリエステを東側に譲る事は、アメリカ合衆国やイギリスにとってはありえない選択肢であった。一方ユーゴスラビア側から見れば、この地域における唯一の港湾を有していたのがトリエステで、同時にスロベニア地域からの唯一の外海への出口でも在ったため、譲れない問題であった。 この問題は国際連合への預かりとなり、1947年現在のイタリアとスロベニア領に当たる地域が国際連合安全保障理事会管理下の非武装中立地域となった。便宜的にイギリス軍占領地域のトリエステ中心部を「A地区」、ユーゴスラビア軍占領地域を「B地区」と呼んだ。その後冷戦の激化の中で両地域の経済的分断、人的交流の分断が進行した。1952年にはアメリカ、イギリスが「A地区」の自治をイタリアに任せる事で撤退し、国連安保理による統治は終結した。イタリアとユーゴスラビアとの領土問題は1954年のロンドン覚書(イタリア語版)により現在のイタリアとスロベニア、クロアチアの境界線を確定させ、その後1975年のオージモ条約でイタリアが「B地区」の領有を放棄する事で最終的に決着した。 スロベニアとクロアチアの境界線は1946年のユーゴスラビア内の各共和国、及び自治州の境界線を制定した時に設定された。この境界は1991年にスロベニア、クロアチア両国がユーゴスラビアから独立して以降も存続している。
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