ユーゴスラビア紛争とサラエヴォ包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 07:59 UTC 版)
「子ども戦争博物館」の記事における「ユーゴスラビア紛争とサラエヴォ包囲」の解説
1991年に始まったユーゴスラビア紛争によって、ユーゴスラビアの各共和国で戦闘が起きた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォがサラエヴォ包囲(1992年-1995年)と呼ばれる攻撃を受けた。盆地の都市であるサラエヴォは、周囲の丘陵から戦車や迫撃砲、狙撃兵に攻撃された。砲撃は多い時で4時から22時まで続き、1日に千数百発を超えた。この攻撃で11000人以上の市民が死亡し、そのうち子供は1600人以上いた。 食糧、水、電気、燃料が不足し、住まいを失った人々はサラエヴォを脱出した人々の空き部屋などに住んだ。紛争開始後の1992年4月に学校の校舎は閉鎖され、中等学校やギムナジウムは難民の住居になった。あらゆる施設が標的となり、公園への砲撃で親子が死傷することも起き、子供は戸外での遊びを禁じられるようになった。メインストリートは「スナイパー通り(英語版)」と呼ばれ、子供も狙撃兵に狙われた。 「スナイパーがねらっている通りを、友だちが走って渡ろうとしていたんだ。母親は髪を逆立てて見守っている。それを見ていた2人の男が賭けをしていたんだ。彼が生き残れるかどうか。」 マヒル(男性)1978年生まれ 子供が町を出歩くのが危険であるという判断もあり、市民の住居を借りて階段や地下室で授業が続けられた。授業の長さは、その日の砲撃の激しさで決められた。 サラエヴォ市民は、包囲攻撃を受けながらも以前からの日常を維持しようと生活し、それまでの衣服や通勤、誕生パーティや結婚式、コンサートや演劇などを続けた。砲撃を受けるとジョークを言って笑いに変えることもあった。
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