共産党再建活動と再度の検挙
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「伊藤律」の記事における「共産党再建活動と再度の検挙」の解説
判決後の5月に伊藤は親族の伝手で大阪府堺市にあった三菱鉱業系列の堺化学工業という工場に臨時雇員として就職する。ここで働いたのは5ヶ月間であったが、その間に社外工を組織した。労働の現場に初めて入った伊藤は、親しい知人への手紙で「我々の頭の中で考えていることが如何に抽象的で、一面的で、ある場合には子供っぽくさえあるかを痛感します」「僕は一切の感覚を働かせて、ねばり強い辛抱をもってこの生産点から本当に大切なものを摂取しようと努力しています」と記している。 このあと伊藤は1936年2月に東京帝国大学経済学部助教授の土屋喬雄の研究室で、日本の農業経済史の研究に携わった。この年の7月に最初の結婚。秋、一高同期生の兄で活動家だった長谷川浩と知り合い、翌1937年8月に長谷川と伊藤は共産党の再建活動に入った。二人は人民戦線戦術を採用して、街頭ではなく職場を中心とした活動をおこなう方針を決めた。伊藤は工場などに組織を作る活動をおこなうが、その過程で世田谷区池尻で活動していた文芸サークル「街」に接触した。これはこのサークルに工場労働者が多くいたためで、文芸サークルから労働者組織への転換を指導した。9月、「街」のリーダーだった青柳喜久代(1914年 - 1968年、戦後中野区議会議員)から青柳の叔母(母の妹)に当たる北林トモを「アメリカ帰りのおばさん」として紹介され、名前を知らないまま二度会っている。伊藤は長谷川と相談し、北林は言動などから諜報組織に所属しているかもしれず、運動にマイナスになるという理由で手を切った。 1938年、全国購買組合東京支所に就職し、全国の農村調査をおこなった。土屋喬雄の下での研究と合わせて養われた伊藤の農業への造詣は、のちの経歴に生かされることになる。1939年8月に南満州鉄道に入社。東京支社調査室嘱託となり、前職の経歴を買われて農村事情の調査をおこない、社内誌に論文を発表している。しかし、以前に伊藤がオルグした東京商大のOB・学生による社会主義運動のグループが摘発され、彼らと面識のあった伊藤も同年11月11日に再度検挙を受けることとなった。この検挙は特高の宮下弘が放ったスパイによるものだった。
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