原発事故後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:16 UTC 版)
しかし、プリピャチとそこに住む市民の生活は、1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故で一変した。 事故が発生したのが未明の午前1時24分だったことから、事故の詳細を知った住民は、ごくわずかな市幹部と党委員会のメンバー、そして事故発生時に原発で働いていた従業員だけだった。市内からは原発が炎上するのが見えたことから、その日のうちに事故があったことが市民に知れ渡ったが、学校で屋外活動が中止されたことと警官の数が普段より多いこと以外は普段と変わり無く、住民の殆どがいつもの土曜日を送っていた。事の重大さを市民が知ったのは、翌4月27日の事だった。事故発生から36時間たった正午にラジオ放送と市内各地の拡声器で原発事故が発生したことが伝えられ、住民は身分証明書と3日分の食料、貴重品を持って集まるよう指示された。14時には住民の避難が始まり、キエフから集められた1,200台のバスを中心に、鉄路や船舶に分乗してプリピャチから離れていった。2時間後、ほぼ全ての市民がプリピャチを離れ、ほとんどの住民を乗せたバスはキエフ州の西端にあるポリースキ地区(現・ポリーシケ地区)で住民を降ろした。市民の大半が3日後にはプリピャチに戻れると思っていたが、実際に戻れたのは数ヶ月後、それもプリピャチから完全に立ち去る前の一時帰宅のためであった。その後、「リクビダートル」として原発に残った技術者や消防士、医師、警官を除いて、プリピャチ市内から完全に市民の姿が消えた。 原発事故発生後、キエフ州の各地にプリピャチを含む避難民の村が作られたほか、原発従業員には優先的にキエフへの移住が許可された。さらに原発から東に50kmの場所に計画都市スラブチッチが作られ、プリピャチの全住民が事故の起きた年の10月から1988年10月にかけて移住した。同じく原発事故の影響を受けたチェルノブイリは少数の(主に年老いた)住民が余生を過ごすことを望んだため完全に無人にはなっていないが、プリピャチはチェルノブイリよりも原子力発電所に近かったこともあって無人となり、郵便番号も消滅し現在は割り当てられていない。チェルノブイリ原子力発電所は2000年12月に完全に停止し、現在も廃炉・解体が進められているが、この作業に従事する作業員は、50km離れたスラブチッチから通勤している。 原発事故後、街がそのまま放棄されたため、ソ連後期(「停滞の時代」と言われたブレジネフ時代よりペレストロイカ開始前までの間の時代)の特徴をよく示した集合住宅などの建築物などがそのまま残されたゴーストタウンと化している。
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