原発反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:22 UTC 版)
1967年、中部電力による芦浜原子力発電所(芦浜の地は南伊勢町と大紀町とを含む)の建設計画に反対する非常に大きな運動が起こったため、当時の三重県知事は「終止符宣言」を出し、原子力発電所の計画をいったん停止させた。 1971年、熊野灘に面する井内浦(いちうら)での原子力発電所建設の計画が発覚。井内浦は、熊野市中心部から北東に約3キロほどの位置にあった。なお、井内浦での建設が意図された背景には、この前に発表された、芦浜原子力発電所の計画への反発が激しかったことがあげられるという主張もある。 中部電力は県と市に正式に協力を求めたが、熊野市の6つの漁協は全て、漁業に深刻な影響を与えるとして猛反対を行った。当時の熊野市長は原発について、市議会の判断に委ねるとしたが、市議会は、計画発覚から5ヶ月後、市民からの原発拒否請願を全会一致で採択した。 だが、中部電力は計画を諦めず、地元の人々に原発建設のメリットを説き続けるなどしたため、誘致の再検討を求める陳情が増え、当時の有権者の半数(約1万人)に近い署名が寄せられるなどした。 1980年、熊野市議会は原発建設について、「調査研究機関の市議会への設置」を採択し、誘致を進める動きを示した。このため、原発反対派は、推進派の市議の自宅に押しかけ、徹夜で説得を試みるなど、運動を力押しで推進しようとした。 1986年、チェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、この影響で、熊野の原発建設についても、反対派が主流となっていった。 1987年、市議選で反対派14人が当選して過半数となり、5回目となる原発の拒否決議をするなどした結果、市総合計画から「原発」の項目が削られ、原発建設はついに頓挫した。 2000年、中部電力は芦浜原子力発電所の計画を取り下げた。なお、同社は、井内浦での原発建設計画についても、「現在はない」としているという。
※この「原発反対運動」の解説は、「熊野」の解説の一部です。
「原発反対運動」を含む「熊野」の記事については、「熊野」の概要を参照ください。
- 原発反対運動のページへのリンク