反体制派による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/16 17:37 UTC 版)
「ラッカの戦い (シリア内戦)」の記事における「反体制派による占領」の解説
詳細は「ラッカの戦い (2013年3月)」を参照 2013年3月、ヌスラ戦線など複数の反体制派武装勢力と政府軍とのあいだでラッカ市を巡り戦闘が行われた。 2013年3月2日、ラッカ市郊外のマシュラブ、フルースィーヤ検問所周辺で、シリア政府軍・共和国防衛隊・新政府系民兵と反体制派の間で激しい戦闘が行われた。この戦闘により、武装集団の一部がマシュラブ市を経由して北方からラッカ市内に侵入した。 3日夜から、イトファーイーヤ広場、ダウワール・ディッラ、出入国管理局施設周辺などで、政府軍と反体制派が交戦した。4日にはラッカがほぼ陥落したと報道され、インターネット上に反体制派によって市内の前大統領ハーフィズ・アル=アサド像が倒される映像がアップされた。シリア人権監視団によると反体制派は同市周辺に位置するスィバーヒーヤ検問所、マカッス検問所などすべての検問所、さらには保険局を制圧したという。バースィル通りや政治治安局支部近くでは引き続き政府軍と反体制派が交戦中で政府軍が掌握しているのは軍事情報局支部、バアス党支部などに留まる。さらにラッカ市北部のラッカ中央刑務所などに対して、政府軍が空爆を開始した。 5日、県知事公邸周辺で戦闘が行われ、反体制派によってラッカ県知事ハサン・ジャリーリー、バアス党ラッカ支部指導部書記長スライマーン・スライマーンらが捕らえられた。 6日には、総合情報部、県知事公邸を含むほとんどの政府関連施設が反体制武装集団に制圧され、軍事情報局周辺で激しい戦闘が行われ、体制派の捕虜が300人以上に上った。 ラッカが簡単に陥落したのは、シリア政府が(アレッポ・ホムスなどと比べて)ラッカを重視していなかったと見る向きもあった。また、ラッカは軍事的重要性が薄いものの、革命を勢いづかせる象徴になると考えられていた。シリア政府が最初に喪失(放棄)した県庁所在地となった。
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