インド大反乱と最高指導者擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 00:14 UTC 版)
「バハードゥル・シャー2世」の記事における「インド大反乱と最高指導者擁立」の解説
沈滞した社会の中、東インド会社の抱えるインド人傭兵(シパーヒー、セポイ)の間では奇妙な噂が流れていた。イギリス軍では新たにエンフィールド銃が導入され、その銃が彼らにも配給されるというのである。 これだけならばどうということもないが、そうはいかなかった。そのエンフィールド銃の薬莢の紙袋には、インドの気候でも最低3年は乾ききらないといわれていた牛と豚の脂が濃厚に塗ってあったのである。当時の弾薬は薬莢を口で噛み切らなければつかえなかったので、もしこのような銃を用いるとしたら、セポイ達は戦闘時に宗教的禁忌を犯し、ひいては神を失うことに繋がったことになる。 シパーヒー達は牛を神聖な動物とするヒンドゥー教徒と、豚を不浄な動物とするイスラーム教徒が多数を占める集団であり、牛や豚の油に塗れた物を口に含むという行為は、到底容認できるものではなかった。しかし、イギリスの司令官は拒否したシパーヒーを投獄したため、他のシパーヒーを激怒させ、5月10日に彼らはメーラトでイギリス人の指揮官らを殺して、デリーに向けて進軍した。 メーラトで反乱を起こしたシパーヒーらはデリーに向かい、翌11日にはデリーでシパーヒーや市民も呼応してイギリス人を追い出し、彼らを迎え入れた。シパーヒーはデリー城に入城したのち、ムガル帝国の皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱軍の最高指導者として擁立し、ムガル帝国の統治復活を宣言した。 バハードゥル・シャー2世は反乱にあまり乗り気ではなかったが、彼らに身を委ねるほか選択肢はなかった。その夜、彼は「ヒンドゥスターンの皇帝」としてイギリスに宣戦布告する言文を発した。その文書にはこのように記されていた。 「 「この聖戦(ジハード)は英国人に対するものである。ヒンドゥー教徒に先方が向けられることのないように」 「もし、朕の命がお前たちのために役立つならば、朕は命をいささかも惜しみはせぬ」 」 これを機に、イギリスの統治に不満をもっていたインド各地の農民、商工業者、シパーヒーらは蜂起し、反乱の中心地であるデリーを目指した。また、アワド藩王の一族、マラーター王国の宰相の養子ナーナー・サーヒブやその武将ターンティヤー・トーペー、ジャーンシー藩王国の王妃ラクシュミー・バーイー、ビハールの領主クンワール・シングら旧支配層も立ち上がった。
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