インド大反乱とインド統治
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「インド大反乱とインド統治」の解説
第一次アフガン戦争の敗北後、イギリス東インド会社はシンド、シク王国、ビルマ王国などに次々と攻め込み、順調に会社領の拡張を図っていた。そのためセポイ(東インド会社の傭兵)の数は増加の一途をたどった。セポイは身分的にはヒンドゥー教の高いカーストの者や上流階級ムスリムが多かった。プライドの高い彼らは劣悪になっていく待遇に耐えられず、出兵拒否などイギリス東インド会社に逆らう事が増えていった。 そんな中、1857年5月にインドのメーラトでセポイたちがヒンドゥー教やイスラム教の教えに従って牛脂や豚脂が塗油として使われるイギリス軍ライフル銃の弾薬筒の使用を拒否する事件が発生した。これに対してイギリス軍司令官はこのセポイたちを事実上の死刑である重労働刑に処した。彼らの解放を求める運動が反乱と化し、メーラトは反乱セポイ軍によって占領された。反乱セポイ達はイギリス支配下で形だけの存在になっていたムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世(この頃にはイギリスから支給される年金で細々と生きながらえている「乞食僧」同然の存在になっていた)のいるデリーへ向かい、彼を擁立してイギリスに対して反乱を起こした(インド大反乱(セポイの反乱))。地方にも続々と反乱政府が樹立されていき、北インド全域に反乱が拡大した。 反乱がおきて最初の数カ月、英軍は反乱軍におされぎみで首相パーマストン子爵は弱腰になっていたが、ヴィクトリアは毅然とした態度を崩さず、現地に植民している臣民たちを守らねばならないとして主戦論を唱え、政府に発破をかけ続けた。反乱軍に陥落させられたコーンポー駐屯地でイギリス人婦女子が虐殺されたことがイギリス人の怒りに火を付けた。ヴィクトリアも「気の毒な婦人と子供たちに対して犯されたこの恐るべき行為は大昔ならともかく現代ではとても考えられない。誰もが血の凍る思いである」と怒りをあらわにしている。復讐に燃えるイギリス軍はインド人を大量に虐殺する残虐な鎮圧を行った。イギリス軍は1857年9月11日から6日間かけてデリーを攻撃して陥落させた。地方での反乱はその後も続いたが、最終的には1858年6月20日のグワーリヤル陥落でほぼ平定され、7月8日にはインド総督カニング伯爵が正式に平和回復宣言を行っている。反乱者たちは裁判にかけられ、死刑判決を受けた者は大砲に括りつけて身体を吹き飛ばす方法によって処刑された。皇帝も裁判にかけられてラングーン流刑地に流罪となった。インド人の心はすっかり折られ、彼らが大英帝国の支配に対して武装蜂起を起こすことは二度となかった。 反乱鎮圧後の1858年8月2日にヴィクトリアはインドを自らの直接統治下に置く法律に署名した。これによりインド統治は東インド会社ではなくイギリス政府が行うこととなった。(実質的にはとっくに滅んでいた)ムガル帝国は形式的にも崩壊し、以降ヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」と俗称されるようになった。ヴィクトリアは「巨大な帝国に対して直接責任を負う事に大きな満足感と誇りを覚える」と書いている。 一方でヴィクトリアは再反乱を防ぐには自らの「慈悲深い母」のイメージを前面に出すべきであると考え、信仰の自由を保障することをインド臣民たちに布告した。またヴィクトリアは「インド王侯たちを君主(ヴィクトリア)との個人的な結びつきによって引き付けるべきである。そのためにインドにも高位の勲爵士を置くべきである。」と主張し、アルバート公や政府、インド総督の協力を得てスター・オブ・インディア勲章を制定した。 ディズレーリ時代にはヴィクトリアはインドに強い興味を示すようになり、インド人侍従を側近くに置くようになった。とりわけアブドゥル・カリーム(ヒンディー語版)をペルシア語で「先生、師」を意味する「ムンシー(英語版)」と呼んで寵愛し、彼はジョン・ブラウンの死後にブラウンに取って代わったと言っても過言ではない存在となった。ヒンドゥスターニー語の勉強を始めるようになり、ウルドゥー語と英語が併記されたノートも発見されている。 ヴィクトリアはかねてよりロシア皇帝、オーストリア皇帝が世界一の大国の君主である自分を差し置いて皇帝号(Emperor)を名乗っているのが気に入らなかった。最近ではプロイセンまでドイツ皇帝を名乗り始めており、イギリス君主も皇帝号を得る時だと考えるようになった。またドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の高齢化が進むと、ヴィクトリアはその皇太子フリードリヒ(フリードリヒ3世)に嫁がせた長女ヴィッキーが近いうちに「Queen」より上格の「Empress(皇后,女帝)」号を得ることを懸念するようになった。娘より下に置かれるわけにはいかないと考えたヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」号を公式に得たがるようになった。1876年1月に首相ベンジャミン・ディズレーリにその旨を指示し、彼に議会との折衝にあたらせた結果、4月に王室称号法によって「インド女帝」の称号を公式に獲得した。彼女はその日の日記に嬉々として「これで私は今後署名する時に『女王および女帝』と書く事ができる」と書いている。 1877年1月1日にデリーでインドの藩王たちや大地主たちが召集されてヴィクトリアの女帝即位宣言式「大謁見式(Great Durbar)」が開催された。もちろんヴィクトリア本人がデリーを訪れることはなく(彼女は生涯ヨーロッパ以外の地域を訪れることはなかった)、インド総督リットン伯爵がその名代を務めた。 スター・オブ・インディア勲章 女帝位を欲しがるヴィクトリア女王を皮肉った風刺画。インド人の格好をしたディズレーリがヴィクトリアとインド帝冠とイギリス王冠の交換をしている。 ヴィクトリア女帝のインド人侍従アブドゥル・カリーム(英語版)。
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