インド大反乱とインド統治とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > インド大反乱とインド統治の意味・解説 

インド大反乱とインド統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「インド大反乱とインド統治」の解説

第一次アフガン戦争敗北後イギリス東インド会社シンドシク王国ビルマ王国などに次々と攻め込み順調に会社領の拡張図っていた。そのためセポイ(東インド会社傭兵)の数は増加一途たどったセポイ身分的にはヒンドゥー教の高いカーストの者や上流階級ムスリム多かったプライドの高い彼らは劣悪になっていく待遇に耐えられず、出兵拒否などイギリス東インド会社に逆らう事が増えていった。 そんな中1857年5月インドメーラトセポイたちがヒンドゥー教イスラム教教えに従って牛脂豚脂塗油として使われるイギリス軍ライフル銃弾薬筒使用拒否する事件発生した。これに対してイギリス軍司令官はこのセポイたちを事実上死刑である重労働刑に処した。彼らの解放求め運動反乱化しメーラト反乱セポイ軍によって占領された。反乱セポイ達はイギリス支配下で形だけの存在になっていたムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世この頃にはイギリスから支給される年金細々生きながらえている「乞食僧」同然存在になっていた)のいるデリー向かい、彼を擁立してイギリスに対して反乱起こしたインド大反乱セポイの反乱))。地方にも続々反乱政府樹立されていき、北インド全域反乱拡大した反乱がおきて最初数カ月英軍反乱軍におされぎみで首相パーマストン子爵弱腰になっていたが、ヴィクトリア毅然とした態度崩さず現地植民している臣民たちを守らねばならないとして主戦論唱え政府発破をかけ続けた反乱軍陥落させられたコーンポー駐屯地イギリス人婦女子虐殺されたことがイギリス人怒り火を付けたヴィクトリアも「気の毒な婦人子供たちに対して犯されたこの恐るべき行為大昔ならともかく現代ではとても考えられない誰もが血の凍る思いである」と怒りあらわにしている。復讐燃えイギリス軍インド人大量に虐殺する残虐な鎮圧行ったイギリス軍1857年9月11日から6日間かけてデリー攻撃して陥落させた。地方での反乱その後続いたが、最終的に1858年6月20日グワーリヤル陥落でほぼ平定され、7月8日にはインド総督カニング伯爵正式に平和回復宣言行っている。反乱者たち裁判かけられ死刑判決受けた者は大砲括りつけて身体吹き飛ばす方法によって処刑された。皇帝裁判かけられラングーン流刑地流罪となったインド人の心はすっかり折られ、彼らが大英帝国支配に対して武装蜂起起こすことは二度となかった。 反乱鎮圧後の1858年8月2日ヴィクトリアインドを自らの直接統治下に置く法律署名した。これによりインド統治東インド会社ではなくイギリス政府が行うこととなった。(実質的にはとっくに滅んでいた)ムガル帝国形式的に崩壊し以降ヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」と俗称されるようになったヴィクトリアは「巨大な帝国に対して直接責任を負う事に大きな満足感誇り覚える」と書いている。 一方でヴィクトリアは再反乱防ぐには自らの「慈悲深い母」のイメージ前面に出すべきである考え信仰の自由保障することをインド臣民たちに布告した。またヴィクトリアは「インド王侯たちを君主(ヴィクトリア)との個人的な結びつきによって引き付けるべきである。そのためにインドにも高位勲爵士を置くべきである。」と主張しアルバート公政府インド総督協力得てスター・オブ・インディア勲章制定したディズレーリ時代にはヴィクトリアインドに強い興味を示すようになり、インド人侍従側近くに置くようになったとりわけアブドゥル・カリームヒンディー語版)をペルシア語で「先生、師」を意味する「ムンシー(英語版)」と呼んで寵愛し、彼はジョン・ブラウン死後ブラウンに取って代わったと言っても過言ではない存在となったヒンドゥスターニー語勉強始めるようになり、ウルドゥー語と英語が併記されノート発見されている。 ヴィクトリアかねてよりロシア皇帝オーストリア皇帝世界一大国君主である自分差し置いて皇帝号(Emperor)を名乗っているのが気に入らなかった。最近ではプロイセンまでドイツ皇帝名乗り始めており、イギリス君主皇帝号を得る時だと考えようになった。またドイツ皇帝ヴィルヘルム1世高齢化が進むと、ヴィクトリアはその皇太子フリードリヒフリードリヒ3世)に嫁がせた長女ヴィッキー近いうちに「Queen」より上格の「Empress(皇后,女帝)」号を得ることを懸念するようになった。娘より下に置かれるわけにはいかない考えたヴィクトリアは「インド女帝(Empress of India)」号を公式に得たがるようになった1876年1月首相ベンジャミン・ディズレーリその旨指示し彼に議会との折衝にあたらせた結果4月王室称号法によって「インド女帝」の称号を公式に獲得した。彼女はその日日記嬉々として「これで私は今後署名する時に女王および女帝と書く事ができる」と書いている。 1877年1月1日デリーインド藩王たちや大地主たちが召集されヴィクトリア女帝即位宣言式「大謁見式(Great Durbar)」が開催された。もちろんヴィクトリア本人デリー訪れことはなく(彼女は生涯ヨーロッパ以外の地域訪れことはなかった)、インド総督リットン伯爵がその名代務めたスター・オブ・インディア勲章 女帝位を欲しがるヴィクトリア女王皮肉った風刺画インド人格好をしたディズレーリヴィクトリアインド帝冠イギリス王冠の交換をしている。 ヴィクトリア女帝インド人侍従アブドゥル・カリーム英語版)。

※この「インド大反乱とインド統治」の解説は、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の解説の一部です。
「インド大反乱とインド統治」を含む「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事については、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「インド大反乱とインド統治」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「インド大反乱とインド統治」の関連用語

インド大反乱とインド統治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



インド大反乱とインド統治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヴィクトリア (イギリス女王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS