インド大反乱の鎮圧
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「インド大反乱の鎮圧」の解説
1857年5月、エンフィールド銃に牛脂や豚脂を使用しているという噂が直接の原因となって、イギリス東インド会社が統治するインド・メーラトでセポイ(イギリス東インド会社の傭兵)たちが蜂起した。反乱セポイ達はデリーへ向かい、形式的なインドの統治者であるムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世を擁立してイギリスに対して反乱を起こした(インド大反乱(セポイの反乱))。地方にも続々と反乱政府が樹立されていき、北インド全域に反乱が拡大した。 反乱勃発当初、パーマストン子爵は早期に鎮圧されるだろうと楽観視していたが、予想に反して反乱は長引いた。これについて女王は「無関心を決め込まず、責任を果たせ」という叱責の書簡をパーマストン子爵に送りつけている。反乱軍による残虐行為がイギリス本国に伝わるとイギリス国民の怒りに火が付いた。パーマストン子爵も反乱インド人たちの行動を「地獄の底から這い出てきた悪魔にしかできないような所業」と批判し、反乱鎮圧に本腰を入れた。インド人が「悪魔の風」と呼んだイギリス軍の残虐な鎮圧戦が開始された。 デリーは陥落し、反乱軍が逃れたラクナウも陥落した。1857年のうちには反乱の勢いは萎んでいき、鎮圧に向かった。地方の反乱は翌1858年まで続いたが、それも1858年6月のグワリオール陥落でほぼ平定され、7月にはインド総督カニング子爵が平和回復宣言を行った。 1857年12月に召集された議会でパーマストンは来年の議会で東インド会社の廃止、女王陛下の政府による直接統治へ移行する法案を提出すると宣言した。ただ、この法案が実現するのは続くダービー伯爵政権においてであった。
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