治承のクーデターと高倉院政
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「藤原隆季」の記事における「治承のクーデターと高倉院政」の解説
建春門院の死後、後白河院と清盛の関係は治承3年(1179年)11月、ついに破局を迎えた。清盛は京を軍事的に制圧すると、関白・松殿基房を罷免して追放、39名に及ぶ反平氏公卿・近臣を解官、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止した(治承三年の政変)。その中には、清盛の異母弟・平頼盛、娘婿・花山院兼雅も含まれていた。この時、隆季は政変で失脚した大宰大弐・藤原親信の後任として大宰帥に任じられることになり世の非難を浴びた。正帥は「親王任ずる所の官」で権帥・大弐になることが慣例だったためである。加えてこの政変で解任されて事実上の配流となった関白・松殿基房が任命された官職が大宰権帥であり、正帥には権帥となった基房の監視役の意味合いも有していたからである。だが基房が九州に向かう途中で出家して大宰権帥を辞任してしまったために、結局は大宰権帥となることで落ち着いている。いずれにしても平氏の重要拠点である大宰府を任されたことは、隆季に対する清盛の厚い信頼を物語るものといえる。 治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇は皇太子・言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)、高倉上皇の院政が開始された。隆季は高倉上皇の執事別当となり、3月の厳島御幸にも供奉した。しかし、帰京直後の5月に以仁王による平氏討伐の計画が発覚した(以仁王の挙兵)。以仁王が興福寺へ逃亡したとの報告を受けて27日、高倉院は公卿を召集して対応策を協議させた。興福寺の動きには慎重に対応すべきとの意見が大勢を占める中、隆季は土御門通親と共に興福寺の即時追討と末寺・荘園の没収を強硬に主張して、出席していた九条兼実と激論に及んだ。兼実は日記に「隆季・通親の意見は平家に迎合したもの」と記して非難している。遷都が計画された福原行幸にも高倉院に従って随行するが、高倉上皇の容態悪化・東国の反乱・親平氏の延暦寺の強い要請などにより、11月には平安京還幸となった。翌年正月、高倉上皇は崩御し、隆季は近臣として素服を賜わった。 寿永元年(1182年)、隆季は権大納言・大宰権帥を辞任して出家、元暦2年(1185年)に薨去した。 隆季は一族の六条藤家の影響で和歌にも秀で、『詞花和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に11首が入集している。
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