治承のクーデターと高倉院政とは? わかりやすく解説

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治承のクーデターと高倉院政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 05:53 UTC 版)

藤原隆季」の記事における「治承のクーデターと高倉院政」の解説

建春門院死後後白河院清盛の関係は治承3年1179年11月、ついに破局迎えた清盛は京を軍事的に制圧すると、関白松殿基房罷免して追放39名に及ぶ反平氏公卿近臣解官後白河法皇鳥羽殿幽閉して院政停止した治承三年の政変)。その中には清盛異母弟平頼盛娘婿花山院兼雅含まれていた。この時、隆季は政変失脚した大宰大弐藤原親信後任として大宰帥任じられることになり世の非難浴びた。正帥は「親王任ずる所の官」で権帥大弐になることが慣例だったためである。加えてこの政変解任され事実上配流となった関白松殿基房任命され官職大宰権帥であり、正帥には権帥となった基房の監視役の意味合い有していたからである。だが基房が九州に向かう途中で出家して大宰権帥辞任してしまったために、結局は大宰権帥となることで落ち着いている。いずれにしても平氏の重要拠点である大宰府任されたことは、隆季に対す清盛の厚い信頼物語ものといえる。 治承4年1180年2月21日高倉天皇皇太子言仁(ときひと)親王譲位安徳天皇)、高倉上皇院政開始された。隆季は高倉上皇執事別当となり、3月厳島御幸にも供奉した。しかし、帰京直後5月以仁王による平氏討伐計画発覚した以仁王の挙兵)。以仁王興福寺逃亡したとの報告受けて27日高倉院公卿召集し対応策協議させた。興福寺動きには慎重に対応すべきとの意見大勢占める中、隆季は土御門通親と共に興福寺即時追討末寺荘園没収強硬に主張して出席していた九条兼実激論及んだ。兼実は日記に「隆季・通親の意見平家迎合したもの」と記して非難している。遷都計画され福原行幸にも高倉院に従って随行するが、高倉上皇容態悪化東国反乱・親平氏延暦寺の強い要請などにより、11月には平安京還幸となった翌年正月高倉上皇崩御し、隆季は近臣として素服を賜わった。 寿永元年1182年)、隆季は権大納言大宰権帥辞任して出家元暦2年1185年)に薨去した。 隆季は一族六条藤家影響和歌にも秀で、『詞花和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集11首が入集している。

※この「治承のクーデターと高倉院政」の解説は、「藤原隆季」の解説の一部です。
「治承のクーデターと高倉院政」を含む「藤原隆季」の記事については、「藤原隆季」の概要を参照ください。

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