治承・寿永の乱での活躍とは? わかりやすく解説

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治承・寿永の乱での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:23 UTC 版)

畠山重忠」の記事における「治承・寿永の乱での活躍」の解説

寿永2年1183年)、平家追い払って京を支配していた源義仲頼朝対立し頼朝は弟の源範頼義経に6万騎与えて近江国進出させた。翌・寿永3年1184年正月鎌倉軍と義仲軍が宇治川勢多衝突『平家物語』『源平盛衰記』には、義経搦手属していた重忠が丹党500騎を率い馬筏組んで真っ先宇治川押し渡ったが、馬を射られ徒歩になってしまい、同じく馬を流され大串重親が掴まってきたため大力の重忠は重親を掴まえて対岸放り投げ、そのおかげで重親は他力本願での徒歩立ちの一番乗り名乗りを上げ敵味方嘲笑をかったという話がある。 『平家物語』によると、義仲軍を撃破した義経は京に入り後白河法皇御所駆けつけ、重忠は義経とともに後白河法皇御簾越し拝謁し名乗りを上げている。『源平盛衰記』では重忠は三条河原義仲愛妾の女武者巴御前一騎討ち演じ怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わない見て逃げ出している。この宇治川の戦いで範頼、義経鎌倉軍は勝利し義仲滅びた2月、範頼と義経摂津国福原現在の兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手属している。『平家物語』では義経搦手属し、これを基に話を膨らませ『源平盛衰記』では鵯越の逆落とし大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦い鎌倉軍は大勝して、平家讃岐国屋島へと逃れている。 その後頼朝は範頼に大軍預けて中国・九州遠征させているが、信用に足る史料である『吾妻鏡』ではこの軍の中に重忠の名は見当たらないまた、『源平盛衰記』では義経の軍に属して屋島の戦い戦っているが、軍記物語だけに信頼性は低い。 元暦2年1185年3月義経壇ノ浦の戦い平家滅ぼした

※この「治承・寿永の乱での活躍」の解説は、「畠山重忠」の解説の一部です。
「治承・寿永の乱での活躍」を含む「畠山重忠」の記事については、「畠山重忠」の概要を参照ください。

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