治承・寿永の乱と復興
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「東大寺の歴史」の記事における「治承・寿永の乱と復興」の解説
戦いの詳細は、南都焼討も参照のこと。 治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が勃発した。後白河院の子、以仁王は、平氏主導で進められた安徳天皇の即位に不満を持ち、清和源氏の長老・源頼政とともに謀反を計画した。しかし、準備の段階で謀略は発覚し、王は近江園城寺(三井寺)まで逃がれた。王は、協力の呼びかけに応えてくれた南都興福寺に下らんとしたが、その行く手を阻む平氏と戦い、終に討ち死にした。 この当時、たびたび上洛、強訴しようとする南都の大衆、僧兵の力は強く、平氏も南都北嶺の影響力に頭を悩ませていた。この年には源氏との富士川の戦いでの大惨敗もあり、また畿内の騒擾も相まって平氏は窮地へ追い詰められつつあった。そこで、何かと煩わしい南都を討つことで畿内の基盤を固めようと画策した。それまで、朝廷からの直接の厚い保護もある南都は一度も直接武力攻撃を受けなかった。しかし平家は12月15日までに近江、伊賀、伊勢を平定した後、南都掃討の作戦を実行に移した。 治承4年12月25日、平氏の長平清盛の五男である平重衡は南都へ向け兵を率いて出発した。迎える僧兵を蹴散らした重衡の軍勢の主力は28日、ついに南都へ攻め入った。重衡は田口成良を先兵とし、般若寺のある般若坂の守りを固める大衆の守りを突破、南都を焼討ちにし大勝した。僧叡俊の作成した文書に、以下の記述がある(東大寺文書)。「治承四年十二月廿八日、興福寺と官兵との合戦の間、官兵処々に放火、猛火次第に東大興福両寺に飛び移り、寺中寺外ことごとく消失す」と。また、『平家物語』にも、長々と無残にも風にのった炎に崩れ行く堂舎仏像と炎にまかれて死ぬ人々の阿鼻叫喚の有様が描写されている。のちに、南都の復興に大いに力を貸すことになる右大臣九条兼実は、この南都の被害を聞いて、絶句するほどであった(『玉葉』)。東大寺や興福寺は大半が焼失し、僧侶や避難していた民衆など数千人が焼死したという。 大仏殿は焼け崩れ、大仏は融け落ち、東大寺はまさしく風前の灯だった。この状況で復興にあたったのが、勧進の僧・重源である。その大勧進による東大寺再建の過程は、三期に分けて解説される。大仏の再造(第一期)、大仏殿の再建(第二期)、その他堂宇、仏像の工作(第三期) である。重源は「支度第一」(『法然上人行状絵伝』)と呼ばれたその実務能力を発揮して、見事に東大寺再興をしたのだった。当時の時代背景として、朝廷や鎌倉政権、奥州政権の相克、それに伴う戦乱、飢饉や地震。さらには他の寺院の復興との競合があった。幾多の障害が立ちはだかる中で、この勧進は時代の救世となるものとして民衆から大きく支持された。この時代を舞台にした歌舞伎の演目、『勧進帳』も、この民衆の大仏への帰依を背景にしている。 元々、重源は、東大寺と関係のない僧であった。重源は十代前半に醍醐寺で出家し、藤原師行の後援のもとで3度の入宋を果たした経験豊かな漂泊の聖であり、それまでも高野新別所(専修往生院)を結んだことでも知られる。養和元年、大勧進職に任ぜられたのは、齢も60をすぎてからであった。 朝廷から役所は、造東大寺司と修理大仏司の2つが設けられた。修理大仏司が新設されたのは、大仏殿の炎上に巻き込まれた大仏の痛み具合、特に頭部の損傷が激しく、心して当たる必要に迫られたからである。造東大寺司の長官は藤原兼光(その後造興福寺長官に)、後に藤原行隆、続いて藤原定長、次官三善為信、判官中原基康、主典三善行政が、修理大仏司の長官は兼任として行隆ともう一人、異例ながら身分の低い官務家の小槻隆職が長官として任ぜられ、また後に次官小槻有頼、判官大江国通、主典仲原資広が就いた。
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