治承・寿永の乱と復興とは? わかりやすく解説

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治承・寿永の乱と復興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:24 UTC 版)

東大寺の歴史」の記事における「治承・寿永の乱と復興」の解説

戦い詳細は、南都焼討参照のこと。 治承4年1180年5月以仁王の挙兵勃発した後白河院の子以仁王は、平氏主導進められ安徳天皇即位に不満を持ち清和源氏長老源頼政とともに謀反計画した。しかし、準備段階謀略発覚し、王は近江園城寺三井寺)まで逃がれた。王は、協力呼びかけ応えてくれた南都興福寺下らんとしたが、その行く手を阻む平氏戦い、終に討ち死にした。 この当時、たびたび上洛強訴しようとする南都大衆僧兵の力は強く平氏南都北嶺影響力頭を悩ませていた。この年には源氏との富士川の戦いでの大惨敗もあり、また畿内騒擾相まって平氏窮地追い詰められつつあった。そこで、何かと煩わしい南都を討つことで畿内基盤固めようと画策した。それまで朝廷からの直接の厚い保護もある南都一度直接武力攻撃を受けなかった。しかし平家12月15日までに近江伊賀伊勢平定した後、南都掃討作戦実行移した治承4年12月25日平氏長平清盛の五男である平重衡南都へ向け兵を率いて出発した迎え僧兵蹴散らし重衡軍勢主力28日、ついに南都攻め入った重衡田口成良先兵とし、般若寺のある般若坂の守り固め大衆守り突破南都焼討ちにし大勝した僧叡俊の作成した文書に、以下の記述がある(東大寺文書)。「治承四年十二月廿八日興福寺官兵との合戦の間、官兵処々放火猛火次第東大興福両寺に飛び移り寺中寺外ことごとく消失す」と。また、『平家物語』にも、長々無残に風にのった炎に崩れ行く堂舎仏像と炎にまかれて死ぬ人々阿鼻叫喚有様描写されている。のちに、南都復興大い力を貸すことになる右大臣九条兼実は、この南都被害聞いて絶句するほどであった(『玉葉』)。東大寺興福寺大半焼失し僧侶避難していた民衆など数千人が焼死したという。 大仏殿焼け崩れ大仏融け落ち東大寺まさしく風前の灯だった。この状況復興あたったのが、勧進の僧・重源である。その大勧進による東大寺再建過程は、三期分けて解説される。大仏再造第一期)、大仏殿再建第二期)、その他堂宇仏像工作第三期) である。重源は「支度第一」(『法然上人行状絵伝』)と呼ばれたその実能力発揮して見事に東大寺再興をしたのだった当時の時代背景として、朝廷鎌倉政権奥州政権相克、それに伴う戦乱飢饉地震さらには他の寺院復興との競合があった。幾多障害立ちはだかる中で、この勧進時代救世となるものとして民衆から大きく支持された。この時代舞台にした歌舞伎の演目、『勧進帳』も、この民衆大仏への帰依背景にしている。 元々、重源は、東大寺と関係のない僧であった重源十代前半醍醐寺出家し藤原師行の後援のもとで3度入宋果たした経験豊かな漂泊の聖であり、それまで高野別所専修往生院)を結んだことでも知られる養和元年大勧進職に任ぜられたのは、齢も60をすぎてからであった朝廷から役所は、造東大寺司修理大仏司の2つ設けられた。修理大仏司が新設されたのは、大仏殿炎上巻き込まれ大仏痛み具合、特に頭部損傷激しく心して当たる必要に迫られたからである。造東大寺司長官藤原兼光その後興福寺長官に)、後に藤原行隆続いて藤原定長次官三善為信、判官中原基康、主典三善行政が、修理大仏司の長官兼任として行隆ともう一人異例ながら身分の低い官務家小槻隆職長官として任ぜられ、また後に次官有頼、判官大江国通、主典仲原資広が就いた

※この「治承・寿永の乱と復興」の解説は、「東大寺の歴史」の解説の一部です。
「治承・寿永の乱と復興」を含む「東大寺の歴史」の記事については、「東大寺の歴史」の概要を参照ください。

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