東大寺文書
東大寺文書〈(二十四通)/六曲屏風〉
主名称: | 東大寺文書〈(二十四通)/六曲屏風〉 |
指定番号: | 255 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1960.06.09(昭和35.06.09) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 古文書 |
ト書: | |
員数: | 一隻 |
時代区分: | 奈良~鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 奈良~鎌倉時代の作品。 |
古文書: | 東大寺写経文書 東大寺大勧進僧行勇自筆書状 東大寺奴婢見来帳 東大寺文書 東大寺開田図 東妙寺并妙法寺境内絵図 東寺文書 |
東大寺文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
それまで史実かどうか疑わしい存在と見られていた「田屋川原の戦い」を、新出史料(東大寺文書)を用い初めて史学的検討の対象としたのが新行紀一の論文「文明13年の越中一向一揆について」であった。新行は次のような二つの東大寺文書を紹介し、これこそ「田屋川原の戦い」について言及するものであるとした。 高瀬地頭方去年御年貢の事、連々地下人、一行衆同心の儀を以て、年々過分の無沙汰候。殊に去年中の未進分、殊に去年中の未進分、春中に沙汰致すべきの由地下人申候間、其趣内々申す処、去三月郡内土一揆不思議の企候、地頭方百姓本人として造意の事候間、去年未進之儀、一向沙汰に及ばず候。余りに然るべからずと存じ候条、其後度々人を指下し、堅く申付くる半ばに候。未だ一途ならず候。猶々疎略之儀なく申下すべく侯。委細安楽坊申入れ候。此等の趣尊意をうるべく侯。恐々謹言。八月十三日 直総(花押) — 東大寺文書 下長勘解由左衛門尉よりの書状、これを進らせ候。高瀬地頭方去年分之事、国之儀委細私(として)存ずべき候条、疎略なき由、披露致すべきの由申越し候。誠に今度越中念劇その隠れあるべからず候。高瀬地頭方の百姓等、張本人に依り、少々誅され、数多く逐電候。去年之儀は未進 (分を)寺納すべき事、真実有難く候。今度に至りては、代官の疎略に非ず候哉。(中略)此由御披露仰する所に候。恐々謹言。八月廿五日 順憲 (花押) — 東大寺文書 新行はこの文書の発行時期がおおよそ文明後半~長享年間であること、 文書で一揆の起こった地とされる「高瀬荘」が井波瑞泉寺と近接すること(ともに旧井波町に属する)を挙げ、東大寺文書中の「土一揆」は「田屋川原の戦い」そのものか、もしくは「田屋川原の戦い」の結果「土一揆」が生じたのだと論じた。この論考が発表されて以後、「田屋川原の戦い」は「文明13年の越中(砺波郡)一向一揆」とも呼ばれるようになる。 この新行説に対して新田二郎は東大寺文書の述べる「土一揆」を「田屋川原の戦い」とは断定できないと批判し、また文明年間以後にも砺波郡で国人が活動している史料を挙げて「闘静記」が述べるように文明13年の一揆によって砺波郡全域が一向宗の支配下に入ったとは考え難いと指摘した。「田屋川原の戦い」の存在そのものに懐疑的な新田の考え方は必ずしも受け容れられていないが、新田の指摘する「闘静記」の問題点は重要な論点として後続の研究者にも引き継がれている。
※この「東大寺文書」の解説は、「田屋川原の戦い」の解説の一部です。
「東大寺文書」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。
- 東大寺文書のページへのリンク