東大寺文書とは? わかりやすく解説

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東大寺文書

主名称: 東大寺文書
指定番号 56
枝番 00
指定年月日 1998.06.30(平成10.06.30)
国宝重文区分 国宝
部門種別 古文書
ト書
員数 100巻(979通)、8516通
時代区分 平安室町
年代
検索年代
解説文:  本文書は東大寺伝来した通称巻文書(成巻文書)と、未成巻文からなる文書群で、奈良時代から江戸時代に至る一〇〇巻(九七九通)、八、五一六通からなる
 周知のように東大寺は、奈良時代に勅施入などによって多く初期庄園有し律令制衰退とともにそれらの大半廃絶した平安時代中期以後寺封庄園化などの多様な方法通じて寺領庄園拡大した庄園領主として存在した
 内容は、東大寺の歴史反映して多岐にわたるものの、その中心をなすものは東大寺庄園関係文書である。様式上では牒、解などの公式様文書官宣旨綸旨院宣御教書などの公家様文書筑前国観世音寺元興寺などの末寺関係文書東大寺修造庄官補任状出納文書訴訟文書などの寺内文書田畠売券寄進状譲状などの経済関係私文書など多種多様である。
 本文書の特徴的なものを以下にあげてみると、天平勝宝元年七四九)九月廿九日大宰府牒案など一連の文書は、保延元年一一三五)に末寺となった観世音寺東大寺提出した案文ではあるが、観世音寺正文伝わらない現在、同寺の規模所領示して貴重である。また貞観元年(八五九)十二月廿五日近江国依知庄検田帳元興寺僧延保が、検田使として庄田の不正を摘発した功績記したもので、「田刀」の初見史料として著名な文書であり、当時請作経営あり方示して重要である。
 中世における東大寺最大規模庄園である伊賀国黒田庄関係する文書には、私営田領主藤原実遠や在地領主消長寺僧による庄園経営実態、庄民や黒田悪党成長など、中世社会研究上の根本史料がある。とくに天喜元年一〇五三八月廿六日官宣旨案や同四年十二月十三日東大寺政所下文案などは庄園成立過程を示すものとして貴重である。黒田悪党弘安五年(一二八二)十月十日東大寺衆徒訴状案から現れ嘉暦二年(一三二七九月十日黒田庄悪党縁者落書交名や同交名注進状案などは、東大寺による黒田庄支配終焉告げ悪党活動物語史料として注目される
 その他、東大寺復興にかかわるものとして、寿永三年一一八四)七月二日源頼朝御教書文治三年一一八七)十月九日源頼朝書状などの頼朝文書東大寺造営料国あてられ周防国や、瀬戸内海交通要衝に当たる摂津国兵庫関に関するものなど貴重なものが多く残されている。成巻文書中には久安四年(一一四八四月十五三春是行起請文があるが、この文書起請文言のある現存する最古起請文であり、また牛玉宝印紙を翻して起請文料紙用いたものの初見である文永三年一二六六)十二月廿日東大寺衆徒連署起請文未成巻文書に収められている。
 このように東大寺文書は文書群としての質・量において高野山宝簡集東寺百合文書とともにわが国代表する寺院文書であり、奈良・平安時代文書の多いのが特徴である。とくに未成巻文書は未表具のままに伝来し当時の原装の姿をとどめて古文書学上にきわめて価値が高い。

東大寺文書〈(二十四通)/六曲屏風〉

主名称: 東大寺文書〈(二十四通)/六曲屏風
指定番号 255
枝番 00
指定年月日 1960.06.09(昭和35.06.09)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 一隻
時代区分 奈良鎌倉
年代
検索年代
解説文: 奈良鎌倉時代作品

東大寺文書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)

田屋川原の戦い」の記事における「東大寺文書」の解説

それまで史実かどうか疑わしい存在見られていた「田屋川原の戦い」を、新出史料(東大寺文書)を用い初め史学検討対象としたのが新行紀一の論文文明13年越中一向一揆について」であった。新行は次のような二つの東大寺文書を紹介し、これこそ「田屋川原の戦い」について言及するのであるとした。 高瀬地頭方去年御年貢の事、連々地下人一行同心の儀を以て年々過分無沙汰候。殊に去年中の未進分、殊に去年中の未進分、春中に沙汰致すべきの由地下人申候間、其趣内々申す処、去三月郡内土一揆思議の企候、地頭方百姓本人として造意の事候間、去年未進之儀、一向沙汰及ばず候。余りに然るべからず存じ候条、其後度々人を指下し堅く申付く半ばに候。未だ一途ならず候。猶々疎略之儀なく申下すべく侯。委細安楽申入れ候。此等の趣尊意をうるべく侯。恐々謹言八月十三日 直総(花押) — 東大寺文書 下長勘解由左衛門尉よりの書状、これを進らせ候。高瀬地頭方去年分之事、国之儀委細私(として)存ずべき候条、疎略なき由、披露致すべきの由申越し候。誠に今度越中念劇その隠れあるべからず候。高瀬地頭方百姓等、張本人に依り少々誅され、数多く逐電候。去年之儀は未進 (分を)寺納すべき事、真実有難く候。今度至りては、代官疎略に非ず候哉。(中略)此由御披露仰する所に候。恐々謹言八月廿五日 順憲 (花押) — 東大寺文書 新行はこの文書発行時期おおよそ文明後半~長享年間であること、 文書一揆起こったとされる高瀬荘」が井波瑞泉寺近接すること(ともに旧井波町属する)を挙げ、東大寺文書中の「土一揆」は「田屋川原の戦いそのものか、もしくは田屋川原の戦い」の結果土一揆」が生じたのだと論じた。この論考発表され以後、「田屋川原の戦い」は「文明13年越中砺波郡一向一揆」とも呼ばれるうになる。 この新行説に対して新田二郎は東大寺文書の述べる「土一揆」を「田屋川原の戦い」とは断定できない批判し、また文明年間以後にも砺波郡国人活動している史料挙げて「闘静記」が述べるように文明13年一揆によって砺波郡全域一向宗支配下入ったとは考え難いと指摘した。「田屋川原の戦い」の存在そのもの懐疑的な新田考え方は必ずしも受け容れられていないが、新田指摘する「闘静記」の問題点重要な論点として後続の研究者にも引き継がれている。

※この「東大寺文書」の解説は、「田屋川原の戦い」の解説の一部です。
「東大寺文書」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。

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