東大寺攻めとは? わかりやすく解説

東大寺攻め

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:41 UTC 版)

東大寺大仏殿の戦い」の記事における「東大寺攻め」の解説

三人衆筒井連合軍奈良駐屯してから約6ヵ月経過した多聞山城背後松永三好連合軍奮闘しているが、兵力三人衆筒井連合軍上で有利に作戦展開していた。膠着状態の中、10月10日松永三好連合軍三人衆軍の本陣がある東大寺奇襲した。この時の戦いの状況を「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋兵火法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊延焼して、丑刻には大仏殿焼失した猛火天にみち、さながら落雷あったようで、ほとんど一瞬なくなった釈迦像も焼けた言語道断」(『多聞院日記』)と記している。午後11時に戦闘開始され戦闘中穀屋から失火法花堂それから大仏殿回廊、そして日をまたいだ10月11日午前2時には大仏殿焼失したようである。また、四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍夜討三人衆側も死力尽くして戦った対抗できず、遂に中門堂と西の回廊に火を放たれ焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした。」(『多聞院日記』)と記しており、『東大寺雑集録』にも午後10時記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺防備目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないか思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が300名を数えた。またルイス・フロイスの『日本史』では違う内容記載している。「多聞山城包囲した軍勢大部分は、その大仏寺院内部とこの僧院あらゆる場所に宿営した。その中には我ら同僚によく知られていた一人勇敢な兵士もいたのであるが、我ら世界万物創造者に対してのみふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく夜分自分警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず全焼してしまった」(『日本史』)と記してある。この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士イエズス会入信している誰かが放火したとしており、『多聞院日記』や『東大寺雑集録』とは違う記載になっている切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙い夜襲のためやむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている奈良の大仏を「戦国時代仏頭松永久秀兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長徳川家康松永久秀紹介する時に三悪事の1つとして東大寺大仏焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし『大和軍記』には「(三好軍の)思いがけず鉄砲火薬に火が移り、」と記載されていたり、『足利世紀』には「三好軍の小屋大仏殿周囲(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、『松永久秀真実』では「松永方が放火し焼けたではなく、罪があるとしても、過失により、大火招いたものだろう。ましてや久秀が指示して大仏殿焼いたということはあり得ない」としていたり、『筒井順慶生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、実際三好方の失火であった信長に2回も謀反した悪辣ぶりが後世付会呼んですべての久秀の罪業押付けられたのである」とする。これより直ちに「松永久秀放火説」がなかったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中不慮失火説」が有力である。 この時焼失したのは、大仏仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった鐘楼堂も火がついたがこちらは僧侶達の消火活動によって類焼避けることができた。いずれにしてもこの火災三人衆軍、池田軍は総崩れになり、摂津山城退いていった。また、滝山城の戦い活躍した別所軍もいたようで、5月17日岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、大仏殿焼けるとみるや自陣焼いて播磨帰国した一方筒井軍は後方大乗院山に布陣していたためか、大きな被害はでず筒井城引き上げていったと思われている。また別の説では松永軍次々と寺を焼き払うのを見かね、東大寺主戦場とする三人衆意見の相違があり、残留部隊のみを残し早々に筒井城引き上げていたという見解もある。しかしこの時の順慶詳細な行動については記録がなく、詳しいことは解っていない。

※この「東大寺攻め」の解説は、「東大寺大仏殿の戦い」の解説の一部です。
「東大寺攻め」を含む「東大寺大仏殿の戦い」の記事については、「東大寺大仏殿の戦い」の概要を参照ください。

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