滝山城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 16:48 UTC 版)
三好長慶の死後、跡目は甥の三好義継となったが養子という事やまだ幼いこともあって、後見に三好三人衆と共に重臣であった松永久秀がなった。 長慶の死後、三好氏が弱体しているのを察知した室町幕府13代将軍足利義輝は、役職を与えるなどして幕府の権威回復に力をつけてきた。これに危機感を覚えた三人衆は将軍暗殺を計画。永禄8年(1565年)5月19日に義輝を討ち取るという大事件(永禄の変)が発生した。 三好政権の障害となっていた義輝を排除したものの、これ以降三人衆と久秀との間で政権内の主導権争いが顕在化していく。 永禄9年(1566年)2月、三人衆は安宅信康に命じて淡路水軍を率いて滝山城攻略を開始した。この時の守将は不明(久秀は不在であったという説もある)であるが、城の守りは非常に固く11名の首を打ち取っただけで兵を引いた。その後しばらくは膠着状態が続いていたが、安宅軍に三木氏、明石氏、衣笠氏などの播磨勢の援軍が到着、水の手を切り同年8月17日総攻撃を仕掛け、ついに落城させた。 この戦いの後の状況については東大寺大仏殿の戦い#転機を参照。
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