滝山合戦以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:56 UTC 版)
天正15年(1587年)前後、氏照が八王子城に本拠を移すまでの期間、滝山城は政庁として使用されていた。 古河公方足利義氏が小山秀綱に送った書状の中に、北条氏政が1569年(永禄12年)11月23日、滝山城と相模国津久井城の普請を指示した記述がある。(小山氏文書より) 1570年(永禄13・元亀元年)8月13日、上杉氏の使者大石芳綱、北条氏側との交渉について山吉豊守に報じた中で、上杉輝虎が越山するなら、北条方からは家老の子兄弟二・三人を人質に提供し、上杉方から家老の子一、二人を人質にとって滝山か鉢形におくとの提案があったと記す。(上杉家文書) 1570年(永禄13・元亀元年)10月16日、氏照、小山田八々郷に対し、敵が入間川まで来た場合の戦争に備え、男は武器を持って18日未明に滝山に集合し点呼を受けるように命じる(新編武蔵・多摩郡成瀬村) 1572年(元亀3年)7月25日に氏照は、多摩郡の家臣中村弥五郎・岩田・石川・宮本を翌日早朝に滝山城に召し出すという朱印状を出す。(三島明神社文書より) 1575年(天正3年)11月19日、氏照、埼玉郡久下分(埼玉県飯能市)の山に直轄の立林を設け、下草の刈りも禁じ、違反者は滝山に連行するよう島村図書助氏・吉田氏に命じる(武州・高麗郡飯能村又右衛門所蔵) 1576年(天正4年)1月11日、氏照、長田村(永田・埼玉県飯能市)の立林で下草刈りなどをした者を滝山に連行するよう、長田村の藤七郎・弥十郎に命じる。(細田文書) 1577年(天正5年)2月10日、氏照、八王子山麓の 根古屋 保護のため、八王子側の竹木・下草の伐採を禁じ、違反者は滝山に連行するよう薬師山(薬王院)別当に命じる(高尾山薬王院所蔵) 1578年(天正6年)10月26日、氏照は、並木弥六郎に小山城の在番を命じ、大石照基とともに来月7日滝山を出て、久喜・大室、榎本を経て、10日に小山に到着するよう命じる朱印状を出す。(青梅市郷土博物館所蔵並木家中世文書より) 1580年(天正8年)閏3月4日、氏照は、武田方との戦争に備えて滝山宿に陣取り、陣触次第出発するよう、土方弥太郎に命じる朱印状を出す。(日野市金剛寺所蔵土方文書より)
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