東大寺法華堂の不空羂索観音立像
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「東大寺不空羂索観音立像」の記事における「東大寺法華堂の不空羂索観音立像」の解説
法華堂内陣中央に八角二重の基壇が設けられ、そこに不空羂索観音立像が安置される。「鹿皮観音」(ろくひかんのん)とも呼ばれる。 像高は362センチメートル、脱活乾漆造、頭髪は群青彩、全面は漆箔仕上げで金色を帯び、三眼八臂、頭上には銀製の宝冠(高さ88センチメートル)を戴いている。眉間には白毫として水晶がはめ込まれ、額にある3番目の眼は縦に開く。目鼻立ちは均整がとれていて、威厳ある表情を造り上げている。立像の表情について、しばしば「沈鬱」、(密教像特有の)「かげり」があるとの形容が見られるが、田中義恭は「むしろ堂内の薄暗い雰囲気や金箔の剥落のぐあいによって、かもしだされたものではないであろうか」と記述している。 8本の腕のうち、2手は与願印を結び、胸前で合掌する左右の手の間に水晶の宝珠(如意宝珠)を潜ませている。その他の4手は、羂索、蓮華、錫杖などの持物をとる。江里康慧は、本像を脱活乾漆造としては、現存する最古の脱活乾漆像と見なすが、金森遵は、本尊より像高が勝る点、及び肉付けが平板な点から、法華堂梵天・帝釈天両像の方が古いとする。 内部は1本の心木が像の頭頂部まで達し、体勢を支えているものと推定される。左肩からは鹿皮を表現した乾漆製の衣が臂にかかり、右肩口からは乾漆製の天衣(てんね)が垂下している。鹿皮と天衣は、異なる材質を表現しようとする工夫がみられ、像に着せるように装着される。胸飾りと瓔珞も乾漆製である。 光背は蓮弁形で多数の光条を備え、放射状の光を表現する。この光背は本来あるべき位置より下方に取り付けられているが、他に類例のない意匠である。『正倉院文書』の記載によれば747年(天平19年)に光背の台座制作に関する記録があり、その時期に光背の台座が製作されたと推定される。 保存状態は良好で、光背・像とも破損した部分は少ない。ただし上述のように、光背を下げて取り付けられているほか、右腕から垂下する天衣や持ち物の一部などが後補である。 制作年代について、『正倉院文書』などから、749年(天平勝宝元年)を下らないとされるが、2011年(平成23年)、奈良文化財研究所の光谷拓実が年輪年代調査で法華堂の部材を調べたところ、須弥壇が729年ないし730年(神亀6年、天平元年-2年)、屋根を支える部材が730年ないし731年(天平2-3年)との結果が得られた。1134年(長承3年)にまとめられた『東大寺要録』(以下、『要録』とする。)には 羂索院 (略)天平五年歳次癸酉建立也。良弁僧正安置不空羂索観音菩薩像(略)。是僧正本尊也。 と、733年(天平5年)に法華堂が立てられ、本尊が安置されたとあるが、『要録』は後世の編纂ということもあり、その記述を疑問視する声もあった。しかし、年輪年代測定の結果により『要録』の記述が現実味を帯びることとなった。 作者について田中英道は、様式などから、国中連公麻呂とする。それに対して、根立研介は、正倉院文書などから、公麻呂は制作者でなく、官吏であるとする。浅井和春は、「様式」を最優先して作者を定める田中の手法を「独断」と呼べるとする。辻惟雄は、田中論への反論に対し、「強引な論旨に反発も強いが、古代彫刻における作者の個性の問題に一石を投じかけるものだろう」と纏める。 像の制作発端として、東大寺毘盧遮那仏建立に対する障害を抑え込むために、強い呪力を持つ不空羂索観音を造立したという説や、藤原広嗣の乱(740年・天平12年)の平定祈願の為という浅井和春の説がある。
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